「潮邦雄君を追悼」.…、桂米朝「くちまかせ」
友人が、
桂米朝の朝日新聞の連載コラム
14年前の掲載記事
「くちまかせ」を送ってくれました。
潮君(桂小米)への心こもった愛、
当時の米子と周辺の町・人たちの姿
を思う。
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朝日新聞連載・桂米朝「くちまかせ」(2007.0529-0619)
●鳥取から「すずめ」が来た
(2007年5月29日朝日新聞)
私の弟子はもちろん関西出身が多いんですが、中には地方から出て来た者もおります。小米は鳥取県の出身です。ほんまは東京の故三遊亭円生さんの所に行こうと思うてたらしい。けど遠いから、親が出してくれないので、うちに来たそうや。鳥取のアクセントは関西とはまるっきり反対やさかい、訛(なま)りを取るのが大変やった。本人も一生懸命、私や家族、兄弟子からいちいち教えてもろうてね。古い大阪弁に触れるようにと、「文楽でも聴きに行きなさい」と勧めたら、熱心に通い出し、みるみる言葉が直ってゆきました。米子東高校を校を出て、うちに入門したのが昭和44(1969)年4月。8月には京都の勉強会で初舞台を踏ませました。初めは絶句する者も多くてね、一遍止まると出てこないもんなんです。けど、小米はすらすら喋(しゃべ)ってたな。本人は「もの知らん田舎の子やから、緊張もせなんだ」と言うてますわ。最初に付けた名前は「すずめ」。「米」も「朝」も付いてませんが、「米を食いに来た」というので「すずめ」にしたんです。彼は農家の倅(せがれ)でしたんや。米が大好きでね。昔からおいしい米を食べてたそうです。高校は米子東やし、何とのう「米」に縁がありますな。しかも、彼の本名は潮邦雄。「名字のさんずい取ったら、朝になりまっせ」と、これは彼の無理やりの理屈ですわ。実は、私が知らんぐらい古い時分に「舌切亭すずめ」という人がいたらしいんやが、喋る商売やのに舌切りというのはあんまりええことないな。こっちは「桂すずめ」。この芸名で5年ほどやってましたが、前の小米が枝雀を襲名して、「小米」が空いたんで、彼が小米を受け継いだんです。ちなみに、現在、すずめは女優の三林京子が名乗っています。彼女は近年、私の弟子になったんでね。女流落語家の名前として「すずめ」が復活したんです。あ、今日は小米の話やったなあ。彼は内弟子に入ってすぐに評判を取りました。「今度来た弟子は布団上げよった」とね。その頃はずぼらな者ばかりで、万年床やった。そこへ田舎から好青年がやってきたんや。
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●小米のマクラは ほんまもん
(2007年6月5日朝日新聞)
噺家(はなしか)はマクラでよく大げさなことを言いますが、小米の鳥取ばなしは全部ほんまのことです。食べ物にまつわる話が多いんですが、これがカルチャーショックの連続。鳥取出身の彼は、大阪に出てきて初めて食べたものが仰山(ぎょうさん)あるんです。その一つがハンバーグ。私の家で出した時にちっとも食べへんさかい、「ハンバーグや。うまいで」と言うたら、「馬のうんこを固めてるんですか」と聞きよった。「食卓にそないなもん載せるわけないやろ」とえらい怒ったんやけど、彼の頭の中にはそれしかないねん。今から30年以上も前のこととは言え、ハンバーグを知らん若者がいたとはなあ。当時、鳥取にハンバーグは無かったと言うんや。鳥取で横文字の食べ物ちゅうたら、ラーメンとライスカレーしか知らんかったと。ラーメンって、横文字かいな。家が農業をしてたこともあるからやろが、普段、彼の食べるもんちゅうたら、自分とこで採れた野菜と、焼き魚か煮魚。それにご飯と漬物ぐらいやったそうな。肉は祭りの時に家で飼(こ)うてる鶏を絞めて食べるぐらいで、牛肉や豚肉は食べなんだ、というより、当たらなんだそうや。鶏や豚は飼育して都会へ売りに出すもんという感覚やったらしい。牛は田んぼや畑を耕すのに一頭いてただけやったそうやしね。けど、考えたら豊かな暮らしやなあ。自給自足できるっちゅうのは。ほんまもんを口にすることが難しくなってくるこれからの時代、小米はもっと大事にしとかなあかんな。たまに実家から野菜やとか果物を送ってくれるんやが、これが実にうまいねん。彼は田舎育ちやったさかい、力仕事はできるし、何事にも熱心に取り組むし、落語もうまいし、おまけに男前やし、言うことない、と言いたいんやが、無類の酒飲みやった。親父(おやじ)さんの血を受け継いだんやろな。いったん飲み出したら止まらへん。ぐずぐずになっても飲んどる。うちの一門は昔から酒好きが大勢いてた。枝雀、歌之助、米太郎……けど、皆死んでしもうたからな、今では小米が一番の酒豪や。彼の酒にまつわる話は次回、腰を据えて。
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● 弟子と師匠 酒が入れば友達や
(2007年6月12日朝日新聞)
普通、内弟子ゆうたら酒や煙草(たばこ)は禁止なんやが、うちは随分ゆるかった。私が両方ともやるからな。殊に酒は相手があってこそのもんやさかい、弟子にもどんどん勧めました。- 3 –
昔から強うて、今でもよう飲むのが小米ですわ。彼とは彼が入門した頃から飲みながらの芸談に花が咲いてね。私が「もう寝え」と言うと、バーッと弟子部屋に戻ってメモしとった。で、書き終えたら、もう一杯飲んでから寝るんや。ほんまに酒が好きやったんやなあ。ただ、しくじりも多かった。「小米! 今日はわしが飲むさかい、帰りのタクシーでは道言うてくれよ」と頼んでも、いざ宴会が始まると彼のほうが先に許容量オーバーして、帰りの車で熟睡。10回中、9回は私の肩にもたれて来よった。京都・木屋町のお茶屋の天井を抜いたこともあった。酔うて2階の窓からポンと飛び降りたら、ズボッと1階の屋根を突き破ってね。あれ、修理代なんぼ払うたんやったかな。内弟子を卒業してからも、小米は私の家に来ては、一升瓶をそおっと持って帰ってたそうや。その時分、うちにはいつも一升瓶が20本ぐらいあったんや。落語会やなんかでよう頂いてたからな。四斗樽(だる)もあった。「仰山(ぎょうさん)あるさかい、1本ぐらい持って帰ったほうが助かりはる」ちゅうて勝手な理屈つけて、わざわざ一升瓶が3本入る鞄(かばん)を買うてきてやで。こないだ聞いたら、年間百本、15年で千五百本は我が物にしたそうや。もっとも、近頃はお返しにええ酒を持って来よる。けど、なかなか返し切れへんやろな、千五百本は。ほんまは、誰にも邪魔されんと、1人で飲むのが一番好きなんやて。で、誰かと飲むんやったら、私の家で私と飲むのが最高やと言うてた。なんでやと訊(き)いたら、「いつでも寝られるし、何の気兼ねもないから」やて。師匠の家やで。大概、気兼ねするもんやけどな。むしろ、筆頭弟子のざこばのほうが気ぃ遣(つこ)てるで。小米は、とみに最近、私には遠慮のう喋(しゃべ)って来よる。私が飲み過ぎたり、ぐずぐず言うた時なんか、家族の者以上に厳しい口調で私を叱(しか)りつけよるんや。小米はもう弟子と言うより飲み友達みたいなもんですわ。
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● 独演会 ネタ選びに小米の下心
(2007年6月19日朝日新聞)
私は40代の後半から大きなホールで独演会を開くようになりました。が、その演目を決める時、参考にしたんが小米の意見です。私らのお客は演目で落語会を選ぶという風潮がありました。「この前もそれ聴いたから、違うネタをやってくれ」という投書も来たしね。まあ、いちいち投書に従うわけにも行かんけどな。小米はその辺りの事情や私の好みもよう知ってたからね。それと、彼にも下心があってね。自分がやりたいネタを私にやらせて、袖でそおっと覚えようという魂胆やったんや。私の独演会のパターンは、前座の次に私が出て一席喋(しゃべ)る。その後、枝雀かざこばが出て喋って、次にまた私が喋って、中入り。休憩の後、私がもう一席喋るという風に、1人で3席喋ってました。この、枝雀やざこばが出る位置を「膝(ひざ)がわり」と言いますが、ここに出られるようになったら一人前や。私と色の違う芸風で会場を沸かして、なおかつ、会の雰囲気を崩さんようにせなあかん。自分のネタに関しても、3席の彩りを考えんならん。うちの師匠(米団治)も3席出す時は彩りを気にしてました。私は若い頃は何でもええと思てたけど、年をとるにつれ、その重要性がだんだん分かってきた。ネタの並べ方によって、やりやすくも、しんどくもなるんです。小米が内弟子だった頃に、私は大阪のサンケイホールで独演会をスタートさせました。「宿屋仇(がたき)」「愛宕山」「算段の平兵衛」という40分の大ネタを平気で3つ並べてました。京都の会では、昼夜でネタを全部変えて、1日に6席喋ったこともありましたよ。当時はいたる所から独演会の依頼が来てたさかいね。お陰さんで、全国どこへ行っても満員やったな。一遍も行ってない所があれば、意識的にそこを回るようにしてたね。行ってない都道府県はありません。若いからこそできたんやな。弟子連中は、私の独演会に出るとなると、そら緊張したやろけど、やりがいはあったと思います。「クラシックを聴きに来るお客のようだ」とは、サンケイホールの支配人だった吉鹿徳之司(よしか・とくのすけ)さんの言葉。ほんに、お客さんには恵まれました。