晩秋・小雨の朝 & ひらめき を起こす

うるさいなあ!と
秋から冬への準備を促す、
しとしと雨の朝、
窓の外を見ると
芝刈りクルーが
家の周りの庭(ヤード)に溜まった
落ち葉を集めてくれている。
摂氏0度前後の寒い中
仕事とは言え
「大変だなあ」と思っていると、
今度は
Hinckley Spring のドライバーが
水のボトル交換にやって来た。
5ガロン(19リットル位)
のボトルは結構重い。
そのとても重いボトルを肩に担いで
玄関まで運んで来てくれた。
いつも愛想の良いお兄さんなので
(かなり早いけど…)
クリスマスのご祝儀をあげたいと
(来月は不在にするの予定なので)
「ずっと気になっていた…」と言う
Wifeが彼に$20入りの封筒を差し出すと
とても喜んでくれました。
気持ちのいい 11月15日(水) の朝でした。
モニターに向かって
いざ、
戦闘態勢!
昨夜、なかなか上手い考えが
思い浮かばず
キーボードを打つ指が
進まなかった、
なのに今朝は、
モニターの後ろにいる交渉相手に
次々愉快なアイデアが飛び出て来る。
ちょっとしたことなんだけど
どうして
昨日は思いつかなかったんだろう…?
今日は頭が冴えてる…。
ちょっとした「ひらめき」が
次々浮かんでくるのは不思議です。
恐らく、誰しもが、
ある時、ある瞬間
特にリラックスした時に
画期的な、時には運命的な
「ひらめき」 が
浮かんで来ることがあるのではないでしょうか?
普段、思ってもいなかったアイデア、とか
長い間、あれこれ考えていたのに出てこなかった…。
又は、
「これだ!」という自分で納得できる解が得られなかった…。
それが、ふとした瞬間に
「ひらめいてくる」
「ひらめき」が訪れる。
そう言えば、
テレビの対談番組の際、
一流の芸術家が
一大作品を完成させた時、
優れた科学者や技術者が
宇宙の不思議を見つけた時、
そして、
ビジネスの成功者が
大成功を収めたビジネスアイデアに出合った時、
を回想して物語る時、
必ず、と言っていい程
「奇跡」が起きた、
とか
「ひらめき」があった
と言います。
「何故かわからない…」
「思い出せないけど…」
「不思議…」
その お蔭で
今の 大成功を、偉業を
成し得た…
と、過去を振り返ります。
何故かわからないけど、
偶然、「その瞬間」があった、と…。
人が 人生を変える程の大きな転機となるのは、
そんな
「ひらめき」 の
瞬間を経験している場合が多いようです。
でも、
その「ひらめき」は
偶然起きるのでしょうか?、
その「ひらめき」は…、
誰もが
いつでも
どこでも
計画的に
引き起こせる訳はありません…
よね…?
…はずですよね?
起こそうと思って起こせる訳ではない、
と思うのですが、
何とか
「ひらめき」を「意識して引き起こせ」ないだろうか…?
「ひらめき」の「質と頻度を高める」ことはできないだろうか…?
それも
人生の転機にもつながるような、
素晴らしい「ひらめき」を 自分の内底から呼び起こすには…?
+++++
身体 も
脳 も
心 も
「使われてこそ鍛えられる」
と言われています。
即ち、
「身体」を鍛えるには「運動」。
「脳」を鍛えるには、
自分にとっては少しハードルの高い本を読んだり、
一生懸命に頭で「考える」。
「心」を鍛えるには、
色々な体験の中から色々な刺激を受けて
その色々な感情で「心を動かす」「感動する」。
身体・脳・心、それぞれ
「使って鍛える」
ことができます。
その一方で、
私達には「本能」というものが存在します。
「本能的に動く」
という言葉がありますが、
人間の本能(進化的に古い脳)は、
食欲、性欲、睡眠欲、の他、
好き嫌い、恐怖 等
を司っています。
そして、さらにその本能は、
(これが少しばかり厄介なものですが…、)
できるかぎり…
楽をしたい、
何もしたくない、
寝ていたい、
のんびり生活したい、
という性格があります。
そして、
これらの
「本能を満たすために」
人類の科学技術が進歩・発展してきたと言えます。
(身の回りにある製品はほぼ全て…
洗濯機、車、電話、コンピュータ 等々)
そして、暮らしは便利になって来たのですが…、
これが一方では、
その便利を使う側の人は、
「脳を鍛える機会」
を奪ってきた、ことにもなるのです。
「使われてこそ鍛えられる」
という原則があるならば、
その裏返しで、
「使われない能力は衰えていく」
ということになります。
身体 の能力も
脳 の能力も
心 の能力も
すべて同じです。
脳の場合…、
使われない脳力は衰えていく…
やがて老いて消えていく…
ということになってしまいます。
何も考えず、
放っておいたら……。
「普通に」「楽に」
を繰り返し、
惰性で本能に任せた生活を続けてしまうと
脳が老化現象を起こしてしまう…。
そして、
この「普通に」「楽に」
というところ…。
これが私達の陥るワナ
なのかもしれません。
この
「普通に」「楽に」
は あくまで
「自分にとって」の
「普通に」「楽に」であって、
「他人にとって」の
「普通に」「楽に」ではないのです。
いくら
他人からは
「凄いなあ!」
と思われるようなことであったとしても、
自分にとっては
「普通に」「楽に」
できるのでは、
「脳を鍛えている」ことにはならないのです。
だから、
「自分にとって」
「普通に」「楽に」できることではなく、
(「楽に」の好きな)
「本能の逆を行く」
意識して、
敢えて
逆を選択する 必要があります。
敢えて
不安定領域に勇気を持って踏み出す必要があります。
「やらなくてすむなら、やりたくない」
「効率化」
を求める
「本能に逆らった生き方」
をしなければならないのです。
これが
「脳を鍛える」ということなのです。
今の自分をより高めていきたい、’
高みを目指す、
を常に意識し、
自分自身を 上のレベルに押し上げる。
今の力を 向上・進化させる。
そのため
少しでも新しい、未知の領域に
チャレンジし続ける、
額にも脳にも汗する、
という道を「敢えて」選択する必要があります。
………とは言え、
人生は人それぞれであり
生き方は自由です。
ですが…、
本能に流されているままでは
「ひらめき」は起きないことも事実の様です。
本能の赴くまま、
楽をしようとしている人のところに
「ひらめき」は来ないのです。
何らかの「ひらめき」を得たい
という人であれば……
「本能に逆らえ」
という訳です。
それでは、
そもそも「ひらめき」とは 何なのでしょう…?
調べると
すばらしい考えなどが瞬間的に思い浮かぶこと。
直感的な鋭さ。
と記載されています。
でも、
思い浮かんだ考え や
直観 は
何もない ところからは生まれて来ないはず。
ですから…、
「ひらめき」とは、
部分・部分のバラバラ だったものが…
点と点 だったものが
全体として統合される。
部分・部分のバラバラ のことが…
点と点 だったことが、
線になってつながり
全体として統合され
「見える」絵になった。
これが脳の中で起きた時
「ひらめき」という形で
感じることができるようになった、
と解釈できるのかもしれません。
翻って…、
人間の細胞の数は
37兆個(或いは60兆個?)
と言われています。
最初の一個は同じ「全能性」を持っていて
すべて同じ細胞です。
髪の毛 の細胞
心臓 の細胞
足の先 の細胞…
元は全て同じ細胞です。
不思議です。
同じ細胞なのに
髪の毛は 伸びるという働きをして
心臓は 鼓動して血液を送るという働きをして
足の先は 曲がる、歩く という働き…。
別の細胞が別の働きをする
なら当たり前なのに
同じ細胞なのに別の働きをする…。
それは何故か?
…奇跡が起きているから。
つまり、
部分・部分が統合され、
ある時、それらがつながった瞬間
全く別の働きをする、ということ。
細胞がある一定の数集まると組織となり、
その組織になった時、全く違う働きをする、
という現象が起きます。
その組織が一定数集まると器官となり、
(肺器官、心臓器官…)
それぞれ別の動きをする・働きをする。
更に、、
肺、心臓、足、脳 などの器官が集まると人間となって
人の身体全体として、全く別の動きをする、働きをする。
人体の不思議です。
この様に、
一件バラバラのものが全体に統合されると
単に足し合わさったものではない、
別のものに進化する仕組みになっていそうです。
1 + 1 = 2
2 + 2 = 4
の算数ではなく
実際は
1が10個足し合わさっても10にはならない。
… 100とか1,000とか…?
或いは、
数字では表されない全く別モノに変わってしまう
という進化が起きる訳です。
「ひらめき」とは、
部分・部分、点と点 という
バラバラだった出来事が、
ある瞬間に
脳の中で繋がって統合され
何等かの化学変化が起きて、
全く別の存在になった、
ということなのではないでしょうか?
(喩えがあまり良くないかもしれませんが…)
イメージとして…、
カレーを作る時、
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、お肉、水
という材料があって、
その一つ一つはバラバラなのに
統合することで一つのカレー
ができあがります。
それらの材料が脳の中でまとまった時が
「ひらめき」
という素晴らしい作品が生まれる瞬間なのでしょう。
それでは、
その脳の中のその材料とは…?
そして、
実際に「ひらめき」が生まれるために
必要なモノ・要素とは
一体、何なのでしょうか?
答え…?
次の三つだと言われています。
(1)鍛えられた脳
(2)大量の知識・経験
(3)リラックス
即ち、
(1)鍛えられた脳:
カレーを作る時の鍋に相当。
優れた鍋でないと素晴らしい ひらめき が生まれない。
ひらめき の質は鍛えられた脳によって決まる。
徹底的に勉強して、一生懸命に自分の頭で考える。
自分にとって
「少しハードルが高いなあ」
「少し難しいかなあ」と思うような本 等に触れ、
自分なりに何とか理解しようと努める。
自分にとって、少しストレスがかかる ような、
負荷がかかる ようなことに挑戦する。
(2)大量の知識と体験:
バラバラだったとしても、
大量・高品質の知識・体験(材料)を脳(鍋)に入れる必要がある。
本をたくさん読む。
心を働かすため、色々な未知の体験をする。
「やったことがないなあ…」とワクワク・ドキドキする体験を重ねる。
チャンスが来たら、それに向かってどんどん踏み出し、刺激を受け心を動かしていく。
(3)リラックス:
カレー鍋の中で熟す働き。
身体の中で知識・体験を熟成させる時間を持つ。
時間を作って瞑想にふける。
日常の生活、仕事や家事に少しストレスがかかり過ぎていると思った時、
少しの間でも時間を取ってぼんやりする。
体の力がふうっと外に抜けていく時間を確保する。
(1)(2) と (3)では一見、矛盾しています。
でも、時には
「矛盾した行動する」
ということが大切になって来ます。
ある時は、
ものすごく頭を使って考えたり、
徹底した勉強や新しい体験の時間を持ちながらも、
別の時間では、
徹底的にストレスを避けて、
とことん身体をリラックスさせてのんびりする。
この(1)(2)(3)三拍子全部そろわないと
「ひらめき」は起きない。
この三つが揃った時に初めて
今までバラバラだと思っていた
何のつながりもない 知識
何のつながりもない 体験
と、思われていた「部分と部分が統合」されて、
一つの「ひらめき」という形で
その人に訪れてくる。
その「ひらめき」という瞬間が来た時に初めて、
「ああ~、人生に無駄というものは何も無かったんだなあ…」
と、思える。
と、それまでにたどってきた道筋が見えてきます。
ある時の勉強。
「これは無駄じゃないだろうか…?」
「こんな勉強していても、意味があるのだろうか?」
と思うことがあるかもしれない。
家事、仕事 などに
直結しない知識、雑学、体験など…。
これをやってるからといって
自分が目指している「夢」とか「目的」に
まっすぐ向かって走っている訳ではない…。
果たしてたどり着くことができるのだろうか…?
回り道の様な 出来事 とか 体験。
それが
実は結果的に全部必要だった!
ということが
「ひらめいた瞬間」に見えてくる。
だから人生には無駄がないし
「起きている事は全て必然」
と思えるようになります。
これは 無駄で
これは 役に立つ
というのは単に「頭の判断」であって
まだ「ひらめき」が起きていない状態の時です。
「ひらめき」が起きた状態 というのは、
全ての点が脳の中で全部繋がって結合して、
何故か全体として全く別の働きをする、
という状態のこと。
全て同じ細胞なのに
ある細胞は 髪の毛をのばしてくれる
ある細胞は 心臓を動かしてくれる
ある細胞は 足を曲げたり歩かせてくれる
こんな全く別の働き方をする
状態が起きている。
私たちは、
そんな不思議な、
日々奇跡の中で生きています。
何でそんなことが起きるの?
同じ細胞だったら
同じ働きをするはずなのに
何で別々の働きをするの?  が
日々私達の日常生活で起きています。
それが自分の脳の中で奇跡として起きるのが
「ひらめき」
なのです。
「ひらめき」が起きると
今までの
「全ての勉強や体験が必要だったんだ」
ということが
「初めて」見えてくるようになります。
だから「過去」の方から「現在」
を見たとしても
絶対に繋がりは見えない。
失敗した…
時間の無駄だった…
と思ってしまう。
失敗とは
成功をあきらめた時、
「ひらめき」の起きる前、
「夢」へ向かう階段を諦め、降りてしまった時
に使う言葉…。
エジソンの
「10,000回の失敗の後の大成功」エピソードと同じです。
稲盛和夫氏の
「私はこれまで失敗したことがない」に繋がります。
「ひらめいた」時に「初めて」
「現在から過去」に向かって
(過去・現在・未来の流れとは)
「逆方向から眺める」
ことができるのです。
今・現在の瞬間から過去を見た時に「初めて」
すべて があったからこそ、
今この瞬間 の自分がいるんだ
ということがわかる、という訳です。
だから…
「人生に無駄は無い」
今、努力している結果が
今後、どの様に実るかは
努力している過程では分からない。
でも一生懸命積み重ねていけば
その努力の
一件一件、バラバラだったはずの
(無駄に思えた)一コマ一コマが
いつかある日突然、結実して花が咲く。
自分が思ってもいなかった
奇跡が起きる…。
過去の原因があって
今の結果が得られた、
という因果の法則。
これは、
「過去」 の時点で 未来 の
「ひらめき」のあった「今」
を見ても絶対にわからなかった。
これに対し、
「ひらめき」の瞬間のあった「今」から
「過去」を見ると視界が開け、
全てがはっきり見えるようになる。
それなら、同様に…、
「開けた明るい未来から現在を見る」
「逆転の発想」
を心がけたら良いのでは…?
そして…、
「奇跡」や「夢」
についても…。
「未来から逆算 した生き方」
「未来に原因 があって現在がある」
という考え方をするのです。
そんな 生き方・考え方 ができたら、
どんなにか ウキウキした明日 を迎ることができるのか、
と思います。
即ち、
「ひらめき」や「奇跡」を信じること。
「夢を見ること」
努力している過程では…、
「ひらめき」が、
「奇跡」が
いつどのような時に
どの様な形で起きるかは
全く分からない。
或いは、
「夢が叶う」のかは根拠もなく分からない。
ですが、、
そんな根拠は
或いはバラバラの部分・点は、
「ひらめき」の瞬間に
ようやく、(初めて)
見える のであって、
手にできる のであって、、
今・現時点では
分からなくても良い、ということです。
「ひらめき」が起きる時には
過去の部分・部分、
全てが あったからこそ
全てに 意味があったからこそ
「今がある」と見る。
脳の自然な働きとは逆の方向です。
「過去の延長線上に未来」を据える、
のではなく、
こうありたい自分 を
「ひらめき」や「夢」を 実現するために
今を生きる、懸命に努力する、
という考え方です。
ひらめき = 未来
から
今の行動 = 現在
を見る。
偉大な「ひらめき」は
常識的な発想や努力からは生まれません。
ひたむきな「今」の
非常識な「誰にも負けない」努力の積み重ねなくして
冴えわたった「ひらめき」は生まれない。
「ひらめき」「奇跡」「夢」は、
いずれも「過去の延長線上にはない」レベルのもの、です。
従って、
ひらめきの起きるのを 信じ
自分の奇跡 に期待し
自分の夢 を描いて
「今を生きる」
それが
より質の高い「ひらめき」の発生を
頻度を高め
必然的に起こさせる
意識的に得る
近道と言えそうです。
+++++
部分・点 と「ひらめき」の関係に付いて、
スティーブ・ジョブズ氏 と
稲盛和夫氏 の言葉に触れておきます。
+++
スティーブ・ジョブズ氏(Steve Jobs):
You have to trust that dots will somehow connect in your future.
点と点は、いつか必ず結びつくんだ!
今すぐに役立つかどうか分からないものは一見ムダにみえる。
でも何年かすぎたころ、その一つ一つの経験が思わぬところでつながり、
君を一人前にしてくれる日が来る。
君にとってムダなことなんて一つもない!
+++++
京セラ名誉会長・稲盛和夫氏
「“知恵の蔵”をひらく」
(「知恵の蔵」は「ひらめき」の源泉、と理解できます。)
私は技術者として、また経営者として、
長く「ものづくり」に携わる中で、
偉大な存在を実感し、
敬虔な思いを新たにすることが少なくありませんでした。
大きな叡知に触れた思いがして、
それに導かれるように、様々な新製品開発に成功し、
事業を成長発展させ、さらには充実した人生を
歩んできたように思うのです。
このことを、私は次のように考えています。
それは偶然でもなければ、
私の才能がもたらした必然でもない。
この宇宙のどこかに、
「知恵の蔵(真理の蔵)」とも
いうべき場所があって、私は自分でも気がつかないうちに、
その蔵に蓄えられた「叡知」を、
新しい発想や「ひらめき」として、そのつど引き出してきた。
汲めども尽きない「叡知の井戸」、
それは宇宙、または神が蔵している普遍の真理のようなもので、
その叡知を授けられたことで、人類は技術を進歩させ、
文明を発達させることができた。
私自身もまた、必死になって研究に打ち込んでいるときに、
その叡知の一端に触れることで、
画期的な新材料や新製品を世に送り出すことができた
──そのように思えてならないのです。
(略)
では、「知恵の蔵」の扉をひらき、
その叡知を得るにはどうしたらよいのでしょうか。
それには、一点の曇りや邪心もない純粋な心を持って、
燃えるような情熱を傾け、真摯に努力を
重ねていくことしかないと考えています。
美しい心を持ち、夢を抱き、
懸命に誰にも負けない努力を重ねている人に、
神はあたかも行く先を照らす
松明(たいまつ)を与えるかのように、
「知恵の蔵」から一筋の光明を
授けてくれるのではないでしょうか。
私は、自分自身の経験から、強くそう思うのです。
そうでも考えなければ、
どこにでもいそうな青年でしかなかった私が、
京セラやKDDIといった企業を設立して、
今日のように発展させることができた、
その理由を説明することができないからです。
京セラの創業にしろKDDIの創業にしろ、
私は寝ても覚めても仕事に没頭し、
それこそ「狂」がつくほど、凄まじい勢いで働いていました。
「世のため人のため、この事業をなんとしても成功させたい」
と強く願い、必死の思いでひたむきに仕事に取り組んでいました。
その努力の報酬として、「知恵の蔵」に蓄積されている
叡知の一部を与えていただいたのではないかと思うのです。
この「知恵の蔵」の恩恵を受けることができるのは、
新規事業の立ち上げや新製品開発など、
創造的な仕事に取り組んでいる人だけではありません。
美しい心を持って、一心不乱に何かに取り組んでいる人は等しく、
その恵みを受けることができると私は考えています。