「円高・円安」 と わが人生の「折り返し」

150円/$ 前後…と
「円安」
が続いている昨今

 

この辺りの円•ドル相場の数字は
私には
大阪→シカゴ
となる時代と共に

 

「円高」
を否応なしに想起させる

 

何故なら
私と私の家族の人生を一変させた出来事…
に繋がるから

 

1985年…
日本で言えばバブル前夜

 

この年、私は大阪府高槻住民で
折しもマンションから中古の一戸建ての家に
引っ越しした

 

当時、アメリカは大きな貿易赤字に悩まされており
これはドルの強さが外国製品を安くし
アメリカ製品の輸出を減少させたことによる部分が大きいとされた

 

ドルの価値を下げることで
アメリカ製品の競争力を高め
貿易赤字の解消を図る必要があった

 

繊維、車、コンピューター基本ソフト
半導体…等
いつもそうなのだが
米国は歴史的に自国利益、産業保護
のためには手段を選ばない

 

その圧倒的覇権パワーで
日本やEUなど属国に対し有無を言わせない

 

ドルの価値を下げる = ドル安 = 円高

 

1985年9月22日
アメリカ合衆国ニューヨークのプラザホテル
で行われた国際通貨協定

 

アメリカ、日本、西ドイツ(現ドイツ)、フランス、イギリス
の5ヶ国の財務大臣及び中央銀行総裁が集まり
主に米ドルの過剰評価是正を目的として
ドル安・他の主要通貨高を促すことに合意

 

いわば
ドル安・円高を誘導することが
プラザ合意(Plaza Accord)の目的だった

 

合意後
ドルは確かに他の主要通貨に対して
価値が下落し
短期間でアメリカの貿易状況は改善した

 

が、これが日本経済に与えた影響は大きく
円の急激な価値上昇(円高)は
日本の輸出産業に大打撃を与えた

 

結果的に
この合意後の円高対策として
日本が取った金融緩和政策が
資産バブルの原因の一つともなり。。。

 

それが20年〜30年にもわたる
日本経済停滞の遠因になったとも言える

 

今では信じがたいが
1985年の始 1ドル=約250円
1986年の終 1ドル=約160円
1988年には 1ドル=約120円台

 

このわずかな短期間の為替レートの
とてつもない変動は

 

私たち輸出、専門商社にとっては
生死を賭けた戦いの幕開けとなった

 

少なくとも
私はそう思った…
日常のデスクワークに追われている場合ではない!

 

世界の荒波の中…
どう生きて行けばいいの〜?

 

⚫供給側
1985年 台湾、東南アジア諸国
⚫需要側
1986年 米国
に飛んだ

 

1985年に戸建ての家を購入…
そこに長年落ち着ける。。。はずだった
戸惑う家族を連れ

 

1987年8月 米国へ…

 

シカゴ…この地は
(a) 私の担当有力顧客がいた
(b) 場所的にも中西部にあり、中小企業も多く、米国内で経済の中心地
(c) 大阪とは姉妹関係
などで選んだ

 

今でもそうだが
当時、日本食しか食べられない男…私が
日本を発つなんて本人は勿論
周りの誰も想像できなかったに違いない

 

1987年と言えば
今の私の歳のちょうど

 

「折り返し」の年

 

会社に当時私が提出した
「米国オペレーション始動」
に付いての文書が見つかった

 

改めて
若きエネルギーに満ちた
日々を思い起こす。。。

 

時代の流れ、渦に 翻弄された.…
ではなく
時代の流れ、波に 乗った…

 

今度は。。。

 

現下ではとてつもない
時代の流れ、うねり。。。
AIの幕開け

 

今から 又
「折り返す」