投稿日: 2024年11月24日

私たちが生まれてから
親からの「無情の愛」

…見返りを求めることなく相手を愛す

そんな「恩」を受けることから始まり、
幼少時…成人してからも次々と
恩を受け続けています。

 

相手は、時には
モノ、コトであったりもしますが、
究極的には「その人」がいたから…

 

忙しさの中にまみれていると、
そして
強く意識していないと
感謝の気持ちは
その一瞬だけ…

 

受けた恩は消えて行き
誰々のおかげ、どころか
恩を受けた事実さえ
「無かったこと」
になってしまいます。

 

他人からの受けた
嫌なこと、中傷、恨み に対しては
私たちは強く反応しますが、
恩に対しては忘れがち。

 

恩恵、恩師…
という言葉もありますが、
もしかして、私たちは誰もが

「宇宙の恩寵」

を授かっているのかもしれません。

 

大前研一さんのツイッター…

「成功した途端、世話になった人たちへの恩義を忘れて
『おれは偉かった』と驕るタイプは、
これまで一度も本当の意味で成功したためしがない。

逆に、自分が学んだことに対して
いつまでも感謝する気持ちを持つことは、
常に見られる成功のパターンである」

 

仕事でも、日々の暮らしの中でも、
ちょっとうまく事がいくと
ついつい調子に乗り
「おかげさまで」とか、
「ご恩で」
が消えてしまう。

 

宇宙の恩寵、自然からの
めぐみ、いつくしみ
を日頃から
意識する日々を過ごしたいものだ…

 

「意識する」「思う」だけに留まらず
その意識を何らかのカタチに
することが「恩送り」になるのでしょう。

 

相手は誰であっても構わない…
受けた恩を世の中に
この先、少しでもできる範囲で「恩返し・恩送り」しよう…

そう思っていたところ、
FB友達の医師のFさんの下記投稿記事が…。

 

人それぞれ…
思い起こせば
似たような経験があるでしょうね。

 

+++++
しばらく前から、
私がしばしば想い出す人がいます。

私が大学生のころに数回、
医師になってから、その人がある病気で
相談を受けた時に会ったくらいで
実は名前も忘れてしまったのですが、
なぜか、一度聞いた、その人のことばが
忘れられないのです。

 

一緒にタクシーに乗ったときだったか
食事をしたときだったか、
支払のときに、ずいぶんな額を上乗せして
(学生だった私にはそう感じられました)
お金を差し出していたのです。

 

私が、なぜそんなことをするのか
(お金がもったいないではないか?と)
その人に尋ねたときに、
はっきりこう言われたのを覚えています。

 

「え、あたりまえじゃないの?
ぼくは前から、タクシーでもレストランでも
必ずお礼をこめて、多めに払うよ。」

 

もともと、少し変わった人だと感じていたので
そのときには「そんな人もいるんだ」
というくらいにしか思いませんでした。

 

それが、自分でも本当に想い出せないのですが、
いつからでしょうか。10年くらい前からか、
私がクリニックを始めたころからでしょうか、
私もいつのまにか、同じようにしています。

 

街の中華屋さんでも、
タクシーでも、居酒屋さんでも、
旅館の部屋担当の人や食事係の人にも
お金を直感で決めた額を上乗せしたり
お礼として手渡ししたりします。

 

特にタクシーの運転手さんには
ワンメーター分では申し訳ないので
2000円はお渡しします。

 

なぜか。
相手の人の喜ぶ様子を見て、
自分もうれしい気持ちになれるからです。

 

もう会うこともないであろう人がほとんどですが
その人が、ほんの短い時間のできごとで
いい気持ちで仕事をしてくだされば、
また次のお客さんに笑顔でサービスをして
新しく笑顔で過ごせる人を増やしてくれるなら
どうということもないことです。

 

なんとなく、気になって、
「恩」ということばを調べていたら、
「恩送り」ということばを知りました。

 

「恩送り」とは
「親切をしてくれた当人へ親切を返そうにも
適切な方法がない場合に、第三者へと恩を『送る』。

 

恩を返す相手が限定されず、比較的短い期間で
善意を具現化することができるため、社会に
正の連鎖が起きる・・・

 

中学生のころ、旅行をしている途中、
秋田県の羽後本荘(うごほんじょう)駅で駅員さんに
一晩待合室を開けたままにしてもらい
翌朝の始発列車まで泊めてもらったことがあります。

 

高校生のときには、真冬の夜のこと、
もうすでに廃止されたJR北海道・松前線の
旧・千軒(せんげん)駅の駅員さん用の
宿直室に泊めてもらい、カップ麺まで
ごちそうになったこともありました。

 

夜中、臨時で走った排雪モーターカーという
除雪車両にも乗せてもらいました。

 

北海道・旭川市に住んでいた大学時代は、
お金もなく、実家の神戸まで船や普通列車を
乗り継いで行き来していたため、
たくさんのひとたちのお世話になったものです。

 

当時、FM仙台のアナウンサーの方と
ひょんなことから知り合った私は、一度、
仙台に伺ったことがあるのですが、
そこでは地元の夕飯をごちそうになり、
ホテル代も払っていただきました。

その際、そのアナウンサーの方に
「私も、Fさんと同じように、旅行が好きで
いろいろなところに行って、たくさんの人に
助けてもらったり、ごちそうしてもらったりしました。

私はそのときの恩を返しているだけ。
だから、Fさんも、将来、若い人たちを
助けてあげてください。」と言われたのを
いまでも忘れません。

 

医師になって、5年くらいのころだったか
学会発表のためドイツに旅行し、
ひとりでフランクフルトでビールを
飲み歩いていたときも、
おじいさんが旧・日本兵と知り合いだったという
方に、ごちそうしてもらったことがあります。

 

私のつたないドイツ語が通じたことが
うれしくてたまりませんでした。

 

(中略)

「・・・ただし、現代の先進国などでは人々が、
こうした良識やモラルを忘れがちになり、
極端に利己的で近視眼的になる傾向があることや
それが社会的に見ると様々な害を
引き起こしていることはたびたび指摘されている。

 

そのような状況の中、
近年、英語圏では『恩送り』に
相当する概念が、
Pay it forward(ペイ・イット・フォワード)
の表現で再認識されるようになった・・・」

お世話になった、すべての人に、
恩返しをすることは残念ながら不可能です。
ですが、「恩送り」なら、今日からでも、
できる範囲で、
小さなことからいつでもできます。

 

現代の社会を、歴史をさかのぼりながら
俯瞰して見ると(それを否定する意見があるのは
十分承知していますが)、少数の者たちが、
国家や企業という枠組を超えて、
地球上の多くの人間を支配し、意のままに
コントロールするためのシステムづくりを
巧みな計画のもと、着々と進めているようにしか
私には見えません。

 

ただ、注意深く、歴史を学び、
あらゆるできごとが、偶然に起きたのではなく
何者かの意図ある計画のもとに実現したものだと
考えるなら。

 

私たち、一般の人間が、到底太刀打ち
できないほどの、賢さを持った者たちになくて、
むしろ、私たちに、当たり前にあるものは何か?

ひとつは、絶対的な人の「数」です。

それは、私たち自身が、合理主義、功利主義を
当然とする時代に生きてきて
忘れそうになってしまっている、もの。

そう、短期的に考えれば、かつての私のように
「なぜ、そんな(ばかげた)ことをするのか?」
と驚いてしまうくらいに、変なこと。

 

それこそが、「恩」であり、
「恩送り」のようなばかばかしく感じられる行為
なのではないでしょうか?

 

この間も、どうしても急ぐので短距離を
タクシーに乗り、「大変な時期ですが、
お互い頑張りましょう」とお金を渡した時の
運転手さんのうれしそうな笑顔を想い出しても
私の方がはるかに幸せをもらっているように
思えてなりません。

 

社会のあり方を変えるきっかけは
意外とすぐそばに、
あまりにもばかばかしく思えるほど
小さなことのなかにあるのかも知れません。

しかし、ひとりひとりは弱くても、
ばかばかしいことを
束になって繰り返すことのなかに
とんでもない力が生まれるように
思えてならないのです。

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