投稿日: 2024年11月24日

2月10日記事の続編です。
この一枚の葉書がたくさんの人の心を動かしました。

石油など資源確保のため、
東南アジア各地に進出していた日本。

第二次世界大戦も、開戦から3年余り経過し、
圧倒的な物量を誇るアメリカを中心とする連合国軍に
次々とその支配・勢力を奪還されて行った…

 

あの沖縄の戦い…
3月26日-6月23日
の直前
フィリピン・マニラの戦い
1945年2月3日 – 3月3日

 

日米の激しい攻防戦の舞台となった
フィリピン…
銃砲撃戦が1カ月にわたって続いた。

 

両軍の死者は約1万8千人
マニラ市街戦では10万人の市民が犠牲になった。
マニラからは日本の特攻隊員も多数出撃した。

 

“I shall return.” (私は必ず帰る)
という言葉を残していた
米国最高司令官のマッカーサーは
2年後、 “I have returned.” と
約束を実現した。

歴史…
特に戦争は、
その正当性を勝者の一方的な論理で記録され残されていく。

 

戦争に
いずれかに善悪、
正邪があるはずがない。

 

特に日本の場合、
戦後教育+反日思想家
によって、あまりに一方的な
ひどい自虐史観がはびこり
それは留まるところがないように思える。

 

「『日本軍が侵略した』と騙るすべての人へ」
とする、ジャーナリストの井上和彦氏の声は
あまりに小さい…
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2455

 

歴史の事実は事実として
真摯に受け止め
素直に学び、

 

国際社会に対し
日本人として
反省すべきは反省を
主張すべきは毅然とした姿勢で…

 

資料が戦火で失われたことで
正確な事実の把握は困難。

 

私たち後世は、
与えられた情報をただ鵜呑みにするのではなく、
自らの常識、知性、経験を生かして考えたい。

 

得られた情報をどのように読み解くか?
どのように解釈するか…。

 

第二次大戦終局の年、1945年。
「痛ましい記憶」

 

こんな事実もあった…と
多くの人と共有し、
私たちの、さらに後世の糧としたい。

 

ところで…
個人的には
伯父・叔父を失った。
両親を失くした従兄姉達との
(子供心にも)
なんとも不自然、不思議な幼少時代の思い出。

 

私の両親は二人とも
戦後の動乱期に再婚…
それぞれ連れ子があり、
彼らは本来、私の兄・姉…

姉は、
1945年(昭和20年) 8月生まれ…まさに終戦の年月
1980年(昭和55年) 病死。生まれながら病弱だった

 

「幻」の兄は、
1944年(昭和19年) 生まれ
残念ながら不幸が相次ぎ、
1958年(昭和33年) 私が小二の時
父と死別して以降、
一緒に暮らすことはなく、
会うこともほぼなかった

 

微かな記憶のかなた…
それで、
戸籍上は、私が「長男」

 

幸い、前回の日本滞在時、
何とか所在確認はできた。
病の床に伏せておられる様子で気弱な声。
双方が達者なうちに会えたらと願う。

 

++++
「76年」…「奇跡のはがき」は、
私の 親・おじの世代(大正生まれ) の人が
私の 祖父母の年代 (明治生まれ) の人宛て
に綴られたもの。

 

日本軍のマニラでの戦死者は約12,000人
そのうちのお一人がMさん。
Mさん とは、
前田末男(当時、海軍大尉)さん。

 

● ミラクル・ストーリー

 

「奇跡の1」
米軍の従軍記者が、廃墟のマニラホテルからハガキを見つけ米国に持ち帰った。

「奇跡の2」
そのハガキが76年間保管され、今年の1月、亡くなった従軍記者の知人により、廃棄処分前の段階でガレージセールへ出店

「奇跡の3」
ガレージセールから娘の高校時代の同学年生が購入

「奇跡の4」
その友人が、日本語で綴られたハガキの内容を知りたいと、卒業後17年ぶりに、娘をFacebookで探し出し、コンタクト

「奇跡の5」
ハガキの宛先は、今も現存する熊本県玉名市。玉名市役所・遺族会を通じて問い合わせが可能だった

「奇跡の6」
前田末男元海軍大尉は、戦中にご結婚され、かつ、ご子息が存在していた

「奇跡の7」
そのご子息(前田利為さん)がご健在で、かつ、利為さんの名が遺族会に登録されていた

+++++
ネットの時代、
上記「奇跡の2」から「奇跡の7」までは
まるで、
澱んだ水が一気に流れるかのように
76年の歳月を取り戻すかのように
あっという間でした。

この奇跡を
地元のテレビ、新聞が報道
熊本県民テレビ
熊本日日新聞、毎日新聞…
Yahooニュース等
が取り上げていました

 

熊本日日新聞の記者からは、
電話インタビューを受けました
https://kumanichi.com/news/id176507
戦死の父からはがき 米で発見、75年の時越え玉名市の遺族に | 熊本日日新聞社 – kumanichi.com
太平洋戦争中に戦地から家族に宛てて書かれた1通のはがきが、75年以上の時を越えて熊本県玉名市の遺族の元へと届いた。受け取った息子ら遺族 …
kumanichi.com

 

毎日新聞は、
ハガキの「候文」を下記の如く
タイプしてくれていました。

 

懐かしい文体、そして
当時の30歳前後の若者の精神と心
現代の同じ年頃の若者に、
どこまで通用、理解できるのだろうか…

 

遠い郷里の日本の家族への思い、愛 …
神風特攻隊に続けと、
未だに生き長らえて…と
生きていることすら後ろめたい…
そんな潔い覚悟を感じさせる。

 

神兵(神につかわされ、守られた兵士)の決意、
楠木正成の精神で突進する構え。
まさに決死、決別の文(ふみ)

 

「防空壕など内地のものは全く児戯に等し」
軍上層部に対しやんわりと皮肉っぽい一文
軍事郵便であるが故に
軟弱な文、
上層部への批判めいた内容は検閲対象…

 

荒れ狂う銃弾と爆撃の嵐の中にあってさえも
落ち着き、
穏やかな口調で
凄まじい決意を感じる

 

このハガキを送ろうか送らまいか…
逡巡しつつ、
死の直前まで懐に大切に抱いていた…

 

おかげで
この「奇跡のハガキ」だけは生き残り
差出人の
当時の年齢は32歳
今生きておられれば108歳
あまりに時間はかかりすぎたが、
今ようやく家族のもとに届いた…。

 

+++
拝啓、冷気相催す折、

〇〇ご壮健にて何より喜び申し候。
十月二十日付航空便本日拝受仕り
故国の意気込み頼もしく存じ居り候。

当地に於いて専ら数十回の空襲に拘わらず
士気、健康共に旺盛。

敵撃滅に邁進罷り在り候へ共、
未だ神風特攻隊に遅れを取り、
生存致し居り候。

内地の兵<四万>到達等至難の現況にては
楠公<楠木正成>の精神に候にて
突進すべき神兵の決意に候。

銃後に在りても
個人的感情を打捨て
各方面(防空・生産)に渉り
一致団結 組織的 実践的訓練を
必要と致すものにこれ有。

防空壕など
内地のものは全く児戯に等し。

隣組を動かし
然るべき改装の要これ有り候。

小島の叔母様方来宅の由、
誠に結構の事に候。
仲良く御暮らしの程、念じ候。

おじゅり叔母様も
お喜びの事と存上候。
御健在を念じて。
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