「旧大沢商会」と「大沢OB会」 そして 「白洲次郎」
入国手続きや、マスク等の騒ぎが収まったら
久しぶりに日本へ…
と考えていたところ…
先月、「最後の」大沢OB会が
今年11月11日に行われる旨の連絡があった
前回の開催は2019年11月9日。。。4年ぶりとなる
前回の終わりに、司会者は
「来年は最後です」
「来年は必ずあります」
この「来年」とは2020年
次回の再会までお元気で。。。と
挨拶を締めた
前回の2019年にはとても懐かしい再会が叶った上
「最後の」という言葉の響きが
何ともやり切れなく。。。
きっとこの場に戻るであろう自分を描いていた
ところが
偽りに満ちた「時代」がその「来年」を許さず
ここにようやく
4年後の今年になって
それが訪れる。。。
前回、ほぼ半世紀ぶりに多くの人たち
20代の人が70代
30代の人は80代…
顔 や 名前、 話し声。。。
姿、顔かたちはすっかり変わってしまったが
名前は驚くほどにしっかり覚えてる
声は全く変わってないように感じ
往年の日々が蘇る…
この日、2019年11月9日
4年前に撮った写真とビデオ
再会叶った人たちに
「送りますよ〜」 の言葉で別れたのに。。。
今年のほんとに「最後の最後の」再会を期し
せめて今こそは。。。と、この再開前には約束を果たしたい
と焦った…
今ここに
改めて写真などのデータを集め
記憶をたどりつつ
一本のビデオにまとめてみた
ビデオ内に「ご登場」いただいていた
すべての人々のご無事、お元気を祈りつつ…
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
(a) 個人的な思い入れの字幕・画像付き動画(2019.11.09)。。。(50分19秒)
願わくば、下記の方々にご視聴頂ければ。。。と
● 私(祖田)と個人的なつながりのある人
● 大沢輸出部・写真部 に関わりのある人
● 私と大沢同期の人
● (株)ユニコ にかかわりのある人
● 「土橋さん」 とつながりのある人
https://photos.app.goo.gl/m6VccodUbfZFzsDQ6
(b) 字幕を最小限に留めた動画(2019.11.09)。。。(38分25秒)
● 上記以外の大沢OB会参加(予定)者。。。ご参考用
https://photos.app.goo.gl/9XQe3iEUyisHHJjdA
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大沢商会…「大沢」が与えてくれた
社風や文化
目に見えない。。。
「たからもの」を
疾風の如く過ぎた一瞬
極めて限られた短期間に
同じ場にご縁をいただいた人々
今なお
この「たからもの」を共有できる人々に。。。
さらには
大沢で育まれ、引き継がれてきた
それが身体の中のどこかで息づくスピリットを持つ私
「その私」の「大沢後」の人生の旅の道すがら
何らか関わっていただいた人々にも
できればシェアしてみたい
もしかして脈々と流れる「大沢」が映し出されるかもしれない
もって、このブログを「私の大沢」の総括としてみたい
+++++++++++++++++++
「大沢商会」…
“おおさわ” と親しみを込めて呼ばれていた
1973.04 ~ 1974.12
私の「大沢」は、 わずかに1年8ヶ月…
この短くも濃密な期間中にめぐりあえた人たち無くして
その後の仕事はもちろん
その後の 大阪…
そして
今の シカゴの暮らしも
家族 も
無い
1890年(明治23年) 創業のこの会社は
私の社会人としてスタートをきった場所であり
原点とも言える
地方から大東京に移り
大都市での暮らしの始まった舞台でもあり
何もかも、ワクワク、ドキドキにあふれ
無我夢中のまま1973年から1974年を駆け抜けた
全ての人にはその人独特の物語があり
ある日突然人生の分水嶺がやってくる
その瞬間にどう決断し行動するか。。。
人生の節目や岐路。。。
自ら積極的にその節目に挑むこともあれば
好むと好まずにかかわらず否応なしに立たされることもある
その時、その場に誰がいたか。。。
私の場合、
大沢商会…大沢はまさに、その節目の大舞台であり
広島から東京へ
学生から社会人へ
の変化の過程で
その重要な役を担ってくれた
ひたすら
身の回りの暮らしの変化。。。
初体験、新発見を楽しんだ
1973年。。。
世は第4次中東戦争が勃発
それを機に始まった第一次オイルショック
でも
私が無知、無関心だったのか
自分の人生航路にはまるで関係ない…
と思っていた
が、振り返れば。。。
1974年暮れ
大沢を去り
東京を離れる
要因。。。
まさにその時代に直面していた所以と言える
そもそも
大沢は。。。
広島大工学部…理工系卒の者としては
極めて異例の選択の職種。。。「商社」
大学教授の推薦する「メーカー」の内定を辞したことで
詫び状を書かされた
でも、これは
少年期、中学卒業時のノートに、
「将来、自分は商社の社長になる」
と書いていた。。。
そのことと直接関係があるかどうか
今となっては記憶は怪しいものだが
面白そう〜
と土壇場で見つけ出したこの会社
ネットも何もない時代…
下調べもそこそこに
とにかく試験会場に向かった
これが
少年の夢の実現の第一歩だった
と振り返ることができる
配属は希望に近く
輸出第一部マーケティング課
大沢社長肝いりの新設された部署と聞き
張り切った…
課内は
課長
新入社員指導役「アドバイザー」と呼ばれる先輩
(私と)同期の新入社員
女性1人と
それに私を含めて総メンバー5人
。。。極めて家族的な雰囲気
取り扱い製品は、マミヤ光機製カメラ
とりわけ、新規発売予定の普及版35ミリカメラ
「マミヤDSX」を中心に海外展開
米国やヨーロッパ市場向け拡販のための
「マーケティング」
マーケティング という言葉自体初耳で
当初はピンとこなかったのだが
海外市場向けプロモーション全般
ただひたすら目の前の業務に没頭する日々
取引先相手や大沢海外支店向けに
初めての英語のビジネス文書
課長や先輩の添削を受けながら
英文タイプ。。。
慣れぬ手つきでパチパチ音を立てる
ファックス登場の遥か以前。。。
テレックス専門の部署があり
その女性タイピストグループに原稿を手渡す
新製品Mamiya(マミヤ)DSX発売にあたって
プロモーション用のカタログを制作
カタログやデモ用資財、器材の制作にあたっては
プロのカメラマンやデザイナーとも頻繁に打ち合わせした
ニコン、ペンタックス、オリンパス、キャノン、ミノルタ。。。
競合機種との機能比較や
海外各地の市場状況調査、分析など
の資料づくり
かなり幅広い仕事や人との付き合いに
ワクワク感が募る日々
1974年… 2年目の年には
2人の新入社員が加わり
今度は早くも私が彼らのアドバイザーになる一方で
短期間で上司が次々変わり
課長も先輩も別の人になる
そのハザマで
マーケティング課を代表して 自らを
「考える部:輸出第一部のマーケティングの担い手」
と銘打ち
大沢社長への直々のプレゼン
という栄誉を授かった
ところが。。。
1974年7月…突然の人事異動
写真部写真第二課へ
その折は
私の直属の上司である輸出部次長すらも認識外にあり
戸惑った。。。
この異動に付いては不可解さは残るものの
日本・国内営業、セールス現場で修行し
能力を高めよ との
有難い話 だと後日風の便りに聞いた
輸出部の 7階から
写真部の 4階への
フロアの階が低くなることから
写真部の人たちには
「上から降りてきた」とからかわれた
定期的にこのような異動があるようだが
彼らからすれば販売の素人を「教育」した後
また上に返すなど迷惑なことだったろう
輸出部の比較的静かで
タイプ音が鳴り響くフロアとは異なり
写真部はひっきりなしの電話音や
部員同士の元気な大声が印象的。。。
激烈な競争下の国内カメラ販売は
プロのセールス現場の緊迫感、スゴみを感じた
長年その環境下で生き残ってきた彼らの
鍛え、磨かれたパワーに誇りと自信がうかがえた
対面でモノを売る仕事。。。
自分の性にあまり合わない気がしていたが
先輩たちに元気づけられた
私の担当区域は
都内の百貨店と福島を含む北関東地区のカメラ店
マミヤやキャノンなどを扱った
日光など観光地にある写真店へ出張、訪問する時など
宿が見つからず車内泊も度々
一週間連続での車旅もあった
1974年10月14日、少年の頃からのスター選手
巨人・長嶋茂雄の引退スピーチ
.「私は、今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です」に
そんな車の中で涙した
「きついな」と思うこともあったが
概ね、車での「どさ回り」自体は楽しめた
セールスから集金まで。。。
成約の楽しみも喜びもあるが
クレーム、返品処理などで
顧客店主から呼びつけられることもしばしば
苦情も結構多い
そんな時は気が沈む
たかが入社1年余りで国内セールス営業経験もない
そんな私のわかったような口のきき方で
ズゲズケとストレートなモノ言い。。。
数年上の先輩たちには
きっと小生意気(こなまいき)に映ったにちがいない。。。
それなのに
「童顔」が幸いしてか
あるいは
7階から降りてきた「客人」扱いなのか。。。
彼らは、そんな私をゆとりを持って受け止め
懐に包んでくれたように思う
可愛がってもらっていた。。。
と
今さらながら身にしみる
この写真部でやっていける人間は
どこに行っても通用するよ
ホンモノのセールスのプロになれるよ
と励まされ勇気づけられた
今思えば。。。
彼らにしても、当時たかだか20代の後半から30代
頭が下がる
感謝の気持ちが湧き上がってくる
夕刻、出先から帰ると
そこは憩の場…温かく迎える人たちがいた
先輩、後輩の関係と言うより、
兄貴、弟分のつながりに近い
これが
80年来続いて来た伝統
社内の至る所でみられる
大沢の文化、社風なのだろう。。。
そんな中、1974年10月31日
次の節目。。。となる日
大沢同期で、大沢・三鷹寮内でも親しくしていた
藤原君からの誘いで土橋さんに出会う
大沢商会輸出第三部。。。
この部署の森部長を筆頭に
分離独立して設立したばかりのスタートアップ企業
(株)ユニコへの誘いだった
総勢20人足らず
必然的に1973・1974当時の
大沢輸出部の人たちにとって
ユニコ創立メンバーは
同じ文化・社風に育ったよく知る同僚。。。
大沢OB会で
半世紀の時を超えてなお
なじみ深いその名が次々飛び出す。。。。
大沢で育ち、巣立っていった人たちだけに
当然と言えば当然なのだが。。。。
少なくとも創立時のユニコは
大沢DNA、スピリッツ、文化、風味を
を確かに引き継いでいる
時代に先駆けるチャレンジ精神
新進気鋭のみんなで
逆境にはチーム一丸となって闘う
「大沢学校を卒業したらどうか」
「大阪で事務所を切り盛りして欲しい」
「給与は、大沢の…増」
等など
大沢には大変未練があったが
土橋さん独特の語りによる
成長機会など…
楽しそうな。。。ワクワクする未来をイメージさせる
その自信に満ちたパワー
明るい人柄、愛らしさも覗ける
人間的魅力にも惹きつけられた
一方、
写真部の直属の上司…高川さん
若々しく敏腕課長、精悍、清々しい。。。
親しみやすい。。。
そんな言葉のフィットする兄貴課長
「3年間は辛抱しろ」
に対し
「今のこの瞬間を大事にしたい」
とナマイキに応じた
高川さん、そして
私の引き継ぎに急遽応じることになった
大野さん
2019年のOB会。。。
何と!
私にとっては「奇跡」
動画内のお二人
これまでの半生。。。
長い。。。
殊に大試練をくぐった大沢。。。
後年。。。
とてつもなく大きな山谷の連続であったろうことを思えば
私の大沢写真部の6か月は
まさに、はるか昔の良き日の一瞬
にもかかわらず
これほどまでに懐かしみ
覚えていてくださった。。。
「童顔」だったよな。。。
当時の一途な思いを叶えて頂いた
このお二人には
申し訳なさと感謝の気持ちが交錯
綾なす思い。。。
この旧大沢商会は1985年に倒産
(大沢の「沿革」等に付いては、本ブログの下部に整理・付記する)
「大沢商会」自体は存続し
ブランド名など継承したことになってはいるが
ネット上の現下の大沢は
私の「あの大沢」にはならない
「田町駅」徒歩数分にそびえる
あの白く映えた大沢ビルは もはやない
ビルは2004年に取り壊された。。。
私の退社後30年間は
山手線で田町駅を過ぎるたびに
その白く輝く姿を懐かしんでいた。。。
大沢OB会は2003年に第一回が開催され
その後コロナ前までの2019年まで
2011年の 東日本大震災の年ですら休まず毎年開かれ
2019年で 16回を数えたそうだ
私は
2012年11月25日 に初参加
2019年11月09日 の参加は2度目
参加者のほとんどが私より年長者とお見受けする
私より以前の昭和のよき頃
高度成長期の末期ではあったが
ありし日の大沢で青春を謳歌
湧き上がるエネルギーを発散
希望に満ち溢れ
やる気みなぎっておられたことだろう
そんな人たち。。。
高齢化社会というが
70代以上の いわゆる高齢者ではあっても
「昭和のお年寄り」とは比べ物にならないくらい
数段元気で若い。。。
とは言え
自然の。。。時の流れに従えば
20代の昭和の人で 70代
30代の昭和の人は 80代
40代の昭和の人は 90代
1973年4月から1974年12月
わずかに 1年8ヶ月
私の大沢商会の在職期間である
● 輸出部第一部 (1973.04 ~ 1974.07)
● 写真部写真第二課 (1974.07 ~ 1974.12)
を通して関わって頂いた大沢の人たちを今また想う
私の
人生行路の大きな岐路、分かれ道
大沢 退社
ユニコ 入社
ご縁を頂いた。。。
2019年11月9日は
半世紀の時を経て
その方々と
同時に顔を合わせる
不思議な。。。特別なめぐり合いの日となった
今、私は
人生の半分を米国で住む身となっている
もはや再会は到底叶わぬものと諦めていたが
この大沢OB会にて
胸のつかえがどれほど和らいだことか。。。
大沢後の
1974年~1986年
ユニコ・大阪で過ごした
1974年 世は 第4次中東戦争後の第一次オイルショック
1986年 世は プラザ合意後のまさにバブルの幕開け
世界の この「節目」を意識し
世界の 大きな流れ・うねりに
自ら進んで身を投じ。。。
1974年 大沢 => ユニコ
1986年 大阪 => シカゴ
自らの 「節目」 を重ねた
このまさに 1974年~1986年 の間
ユニコ丸というエキサイティングな世界に
私を連れて行ってくれた
土橋さん
もうあなたに会うことができないのか。。。
今。。。
今回ばかりは
OB会司会者の最後のあいさつ
「2020年のOB会は必ずあります」は
何ともむなしい
大沢同期の友人として
「大沢」 後
「ユニコ」 後
の今日に至るまで
長く長く仲良くお付き合い頂いた
宇治田君(大沢)
藤原君(大沢・ユニコ)
に改めて「ありがとう」を伝えたい
大沢文化、スピリッツ。。。
それをしっかり継いだはず。。。ユニコ
そのいかにも
個性的で
人間味 あふれ
人情味 のある
人々に囲まれた日々が愛しい
こよなく懐かしむ。。。
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● (付記No.1) 沿革: 大沢商会
========================
1970年代当時、既に80年も続く。。。
京都発祥の伝統ある会社とは入社後知った
+++
1890年(明治23年) 大沢善助、京都で柱時計を製造する会社として創業
1897年(明治30年) 大沢商会設立。
1899年(明治32年) シドニー支店開設
1919年(大正8年) (株)大沢商会設立(資本金300万円)
1928年(昭和3年) ベル&ハウエルの輸入を開始
1943年(昭和18年) 東宝映画(株)と(株)東京宝塚劇場を合併、東宝(株)設立。(社長大沢善夫)
1955年(昭和30年) アメリカに現地法人設立、 (株)米国大沢商会
1962年(昭和37年) 本社を京都から東京に移す
1970年(昭和45年) 東京・大阪証券取引所市場第1部に上場。
1972年(昭和47年) フランスに現地法人設立
1984年(昭和59年)2月29日 – 東京地方裁判所に会社更生法申し立て、受理され倒産、本社を港区芝浦に移しセゾングループ傘下で再建を行なう。
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● (付記No.2) 大沢、宝塚劇場、東宝
===========================
大沢は日本映画の近代化を構想する過程で、写真関連事業にも注力
映画などの文化活動にも多大な貢献
1913年 (大正2年) 宝塚唱歌隊 発足 (阪急電鉄の創業者の小林一三)
1919年(大正8年) 宝塚音楽歌劇学校 設立
1934年(昭和9年) 東京宝塚劇場、東京での拠点となる劇場として誕生
1943年(昭和18年) 東宝映画(株)と(株)東京宝塚劇場を合併、東宝(株)設立。(社長大沢善夫)
「東宝」は「東京宝塚」の略称
大沢と宝塚の関係は初めて知った
(株)ユニコの初代社長で
大沢商会輸出第三部の元部長の
森さん(森雪雄氏)は
東宝不動産の副社長のご子息だと聞いた
その関係か。。。(大沢と東宝の関係)
森部長は部長会議など「時間の無駄」と
「部長会議に出席しない部長」
と別格扱いが許されていた人
ただし、ご本人はむしろ東宝のしばりに抗し
「名門家」とは真逆の道を突き進んでいかれた
それがユニコの起業であり
そして
破天荒、豪傑、猛者ぶりは
ユニコにおいていよいよ本領発揮
水を得た魚ではなかったろうか。。。
相手の存在が大きければ大きいほど
又、
相手が海外であればよけいにそのパワーは加速し
初対面の彼らに対しては特に!
行動を共にする機会が多くあったが
まさに日本人離れした頼もしい人。。。
だが、一方でその反面
緻密な作業やフォローは彼の持ち味とは対極にあった
*****************************************************
● (付記No.3) 大沢社長
==================
私の入社時(1973年)の社長は 大沢善朗(おおさわ ぜんろう)氏
4代目の社長
1932年(昭和7年) 生まれ。。
稲盛さん同年生まれの当時41歳。。。
京都。。。
若かりし日の稲盛さんの姿がダブる
あまりに異なる経営哲学
二人の出会いは無かったろうか。。。
1983年、稲盛さんはカメラメーカーのヤシカを救った
大沢・マミヤにチャンスは無かったろうか。。。
プリンストン大卒でエリート風の風貌だが
親しみを込めて「ぜんろう」さんと呼ばれていた
個人的にも何度かお会いし言葉を交わした
今、どうしておられるだろう。。。
大沢商会歴代社長
1. 大沢善助(1854-1934) 創業者、社長、京都府議長
2. 大沢徳太郎(1876-1942) 社長、貴院議員
3. 大沢善夫(1902-1966) 初代東宝社長
***********************************************************
● (付記No.4) 大沢会長
==================
私の入社時(1973年)の会長は 白洲次郎氏
大沢の会長である事は入社後ほどなくして初めて聞いた
当時は「ふーん」という程度にしかピンと来ず
恥ずかしながら
どんなにスゴイ人物なのか後日知ることになる。。。
1902年(明治35年) 2月17日 〜 1985年(昭和60年) 11月28日
兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)出身
当時としては大変な長身(183センチ)でダンディな写真の数々
残念ながらお会いできた記憶はない
今、日本の政財界に現役でおられたなら
如何なる存在感を示しておられるだろうか。。。
戦後の混乱が渦巻く日本。。。
白洲は
「従順ならざる唯一の日本人」
としての挑戦と矜持を示す
彼の直言不遜な姿勢や独自の哲学は
日本の伝統 と 新しい時代の融合
を試みる挑戦として映し出される
戦後日本の復興と再建を進める上で
白洲次郎と吉田茂の関係は
非常に重要な役割を果たした
外交に関する洞察、知識や経験を活かし
外交政策の方向性や
日本の立場を強化するための外交努力に貢献
日本の国際的な地位の確立をめざす取り組みの中で
助言や提案という形で影響力を発揮
第二次世界大戦終結後
アメリカ軍による日本の占領が始まり
GHQ(連合国総司令部)最高司令官・マッカーサーが指揮
彼の下で、日本の戦後復興と改革が進められた
白洲は
首相・吉田茂との公私にわたる信頼関係を持ち
吉田の外交政策をサポート
日本政府・官僚・政治家 と マッカーサー との「橋渡し役」を務め
吉田の側近、右腕として日本の立て直しに貢献。。。
吉田も白洲の能力や見識を高く評価。。。
アメリカと日本との間のコミュニケーションを円滑にし
多くの誤解や摩擦を避ける上で非常に重要視した
白洲は吉田と同様
日本外交の基本方針として
戦後の日本の安全保障や経済復興のために
日米安保条約を重視
強固な日米関係の重要性を認識していた
焼け野原、極貧国に落ちた日本の
国としての尊厳、威厳を敗戦国ではなく
一国家として世界に示し
「従順ならざる唯一の日本人」と言われ
戦後の日本に極めて重要な働きをした
1949年(昭和24年)
貿易庁長官(初代)に就任、通商産業省(現・経済産業省)の設立
GHQとの連携の経験や外交に関する知識を活かし
戦後の日本の復興をめざす
外交政策の方針決定に関与する助言や提案を行った
(A) 白洲次郎の真骨頂的出来事・エピソード
(B) 白洲次郎の言葉、考え方・哲学
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(A) 真骨頂的出来事・エピソード
(A-1) サンフランシスコ講和会議(条約)
(A-2) 戦後の日本の新しい憲法の草案作成
(A-3) 天皇陛下からのマッカーサーへの贈り物
+++++
(A-1) サンフランシスコ講和会議(条約)。。。1951年(昭和26年) 9月8日
サンフランシスコで開催された平和条約会議
日本とアメリカなど連合国との第二次世界大戦の講和会議
戦後の日本の国際的な地位や独立性を確立するため
連合国と正式に平和条約を締結
結果
日本の主権回復が認められ
独立した国としての地位を再確立した
大きなイベントであったことには間違いないがと思うが
「主権回復」
「独立した国」としての地位
については極めて怪しい昨今の状況である
裏の裏を知り尽くしている
白洲であれば熟知していたはず。。。
日本人の矜持が失われたわけではないとして、戦勝国との交渉に臨み…
「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」
「対等なのだから、相手国に合わせる必要はない」
白洲の日本人としての誇りや矜持を強く示すものであり
彼の強い態度が
吉田茂や他の日本政府の当時の関係者に影響を与えた
英語でスピーチしようとした吉田首相。。。
「講和会議と言うものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず
その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に
相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」
と一括、急遽日本語に書き直させた
+++++
(A-2) 戦後の日本の新しい憲法の草案作成
白洲は、マッカーサーの指示のもと
憲法草案の一部を起草する作業に参加したと言われている
彼の提案は
GHQの草案とは異なるものであり
多くの部分が受け入れられることはなかったが
かなり影響があったとされる
。。。彼の「受け入れられなかった」とされる提案こそが
今こそ
日本国民が本来抱くべき内容ではなかったかと惜しまれる
+++
(A-3) 天皇陛下からのマッカーサーへの贈り物
1945年の秋
昭和天皇は、日本の戦後占領の責任を自らにあるとし
戦犯として処罰される覚悟を持っておられた
天皇は自らの意志でGHQへの面会を希望
マッカーサーとの面会の手配が進められた。
面会前
天皇は白洲を通じてマッカーサーに贈り物を送ることを決断
白洲がこれを携えてマッカーサーを訪れ
天皇からの贈り物であると伝えた
ところが
この贈り物が適切に扱われなかったということで
天皇陛下からの贈り物に対する敬意を欠く態度をとったとして
強く抗議
「仮にも、天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か」
と一喝した
このエピソードは、
当時の日本が敗戦国として国際的にも非常に低い立場にあり
多くの日本人が敗戦に打ちひしがれ
卑屈な政治家や役人ばかりだった中で
決然とGHQと渡り合った彼の言葉が
多くの日本人を勇気づけた
敗戦の混乱した時期に
日本人の心に希望と勇気をもたらし
日本の伝統や文化
とりわけ「天皇」という「日本の象徴」に対する
最大限の尊厳と尊重を求めるものであり
多くの日本人が共感した
1945年9月27日
マッカーサーと天皇の面会が行われた
天皇の戦犯としての処罰の問題が
事実上の終結を迎えることとなった
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(B) 白洲次郎の言葉、考え方・哲学
彼のゆるぎない「プリンシパル」は
稲盛哲学に大いに通ず。。。
言葉や行動を通して
日本の矜持や誇り
そして
日本人としての原則や価値観の大切さを示す
下記の言葉は彼の生き様そのものである
● 熱意だよ。 日本でも明治維新の時の政治家とか実業家は熱意があったからあれだけの仕事はできた
● プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことはない
● プリンシプルは何と訳してよいか知らない。 『原則』 とでもいうのか。 西洋人と付き合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である
● すべての物事で大事なのは、そのこと自体より、それにかかわっている原則だということを忘れてはならない
● 今、日本でいけないのは、すぐ人の脚を引っ張ることだね。 これは大変な奴だと思うと脚を引っ張っちゃう。 だから日本で何かのトップにゆく奴は毒にも薬にもならない奴が大部分だよ
● 人に好かれようと思って仕事をするな。 むしろ半分の人に嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない
● 今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。『そういうことを言ったら損する』 ってことばかり考えている
● 僕は政治家じゃないし、人に何言われても一向に平気なんだ。僕はそういう所、わりに旧式なのよ。自分の良心は綺麗だと思ってるから、人が何言おうと平気なんだ
● 永続性のないような事はせぬがよい。しても無駄だから
● どうしたら良くなるか、それを工夫していくよりしょうがないじゃないか。良くなるとかならんとかいうよりも、良くする他に途がないことを認識すべきだ
● 弱い奴が強い奴に抑えつけられるのは世の常で致し方なしと諦めもするが、言うことだけは正しいことを堂々と言って欲しい
● 『すみません』 はだめだ。 『Say Thank You』 だ
● ボクは人から、アカデミックな、プリミティブ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。 しかしボクはそれが貴いものだと思っている。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。僕の幼稚な成果に触るものはみんな吹っ飛ばしてしまう
● 人間は、地位が上がれば上がるほど役得を捨てて、役損を考えろ
● われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない
● 文化は血の中に流れるものだ
● 日本の伝統的価値は、どんな西洋の理念よりも優れている
● 物を大切にすれば、物もまた人を大切にする
● 失敗は成功の元
● 日本人が本来持っている力を、もう一度取り戻さねばならない
● 日本の美はシンプルさと繊細さの中にある
● 新しきを追求するばかりが進歩ではない
● 一国の文化を守るのは、その国の人々の責任である
● 伝統を守るとは、過去の束縛から逃れ、新しいものを生み出すことだ
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● (付記No.5) 麻生 泰
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麻生太郎さんの弟で麻生セメント会長
白洲次郎と大沢商会のつながりを調査する過程で
偶然この人の名前が。。。
麻生さんと大沢商会がつながっているとは思ってもみなかった。。。
白洲さんの勧めで大沢商会に勤務。。。
大学卒業後1977年に麻生セメントに入社するまでの
数年間、大沢商会勤務 なので
1973~1974年は 私と同じ大沢ビルで出会っていただろう。。。
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https://www.aso-group.jp/message/message.php?id=154
英国留学を終えて帰国してから直ぐに私は婚約しました。職探しはその後でした。父は家業の麻生に入らないかと誘ってくれましたが、私は少し国際的な仕事もしたいと思っていたので、この人が言うことなら父も耳を貸すだろうと白洲次郎さんに相談に行きました。
白洲さんは、ご親切に三つの選択肢を示され、この全てに道筋をつけてあげるよと言われたので、その中から私は大沢商会への入社を希望しました。
白洲さんはこの会社の会長をされており、「よし、上手く行くようだったら親父に頼んで“大沢・麻生商会”にして貰え」と当時の私には意味不明なことを言われたのを思い出します。
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それにしても
麻生家の親族は上に記述した吉田茂をはじめそうそうたる顔ぶれ
高祖父:大久保利通(政治家、維新の三傑、事実上の日本初の首相)
曾祖父:牧野伸顕(政治家、パリ講和会議次席全権大使)
祖父:吉田茂(外交官、政治家・総理大臣)
兄:麻生太郎(実業家、政治家・総理大臣)
写真最下部部分にて。。。
下記人物の抜粋記事を紹介する
「大沢商会創業100年史」(平成2年6月1発行 )より
●白洲正子(随筆家・夫は白洲次郎)
●市川崑(映画監督)
●堀場雅夫(株式会社堀場製作所創業者・最高顧問)
●柳瀬次郎(ヤナセグループ元社長・米国自動車殿堂入り)
●堤清二 (西武セゾングループ代表 )
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大沢商会創業100年史, 抜粋