投稿日: 2021年04月28日

先刻のブログ記事に関連して、
友人が、
桂米朝の朝日新聞の連載コラム
14年前の掲載記事
「くちまかせ」を送ってくれました。

 

米朝師匠独特の語り…

潮君(桂小米)への心こもった愛、

当時の米子と周辺の町・人たちの姿
を思う。

 

いなかに住んでた私たちにとって
東京 はもちろん、
大阪…

私の向かった
広島だって。。。

遠かった。

 

でも、別世界、
都会に出てみたかった。

 

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朝日新聞連載・桂米朝「くちまかせ」(2007.0529-0619)

●鳥取から「すずめ」が来た
(2007年5月29日朝日新聞)

私の弟子はもちろん関西出身が多いんですが、中には地方から出て来た者もおります。小米は鳥取県の出身です。ほんまは東京の故三遊亭円生さんの所に行こうと思うてたらしい。けど遠いから、親が出してくれないので、うちに来たそうや。鳥取のアクセントは関西とはまるっきり反対やさかい、訛(なま)りを取るのが大変やった。本人も一生懸命、私や家族、兄弟子からいちいち教えてもろうてね。古い大阪弁に触れるようにと、「文楽でも聴きに行きなさい」と勧めたら、熱心に通い出し、みるみる言葉が直ってゆきました。米子東高校を校を出て、うちに入門したのが昭和44(1969)年4月。8月には京都の勉強会で初舞台を踏ませました。初めは絶句する者も多くてね、一遍止まると出てこないもんなんです。けど、小米はすらすら喋(しゃべ)ってたな。本人は「もの知らん田舎の子やから、緊張もせなんだ」と言うてますわ。最初に付けた名前は「すずめ」。「米」も「朝」も付いてませんが、「米を食いに来た」というので「すずめ」にしたんです。彼は農家の倅(せがれ)でしたんや。米が大好きでね。昔からおいしい米を食べてたそうです。高校は米子東やし、何とのう「米」に縁がありますな。しかも、彼の本名は潮邦雄。「名字のさんずい取ったら、朝になりまっせ」と、これは彼の無理やりの理屈ですわ。実は、私が知らんぐらい古い時分に「舌切亭すずめ」という人がいたらしいんやが、喋る商売やのに舌切りというのはあんまりええことないな。こっちは「桂すずめ」。この芸名で5年ほどやってましたが、前の小米が枝雀を襲名して、「小米」が空いたんで、彼が小米を受け継いだんです。ちなみに、現在、すずめは女優の三林京子が名乗っています。彼女は近年、私の弟子になったんでね。女流落語家の名前として「すずめ」が復活したんです。あ、今日は小米の話やったなあ。彼は内弟子に入ってすぐに評判を取りました。「今度来た弟子は布団上げよった」とね。その頃はずぼらな者ばかりで、万年床やった。そこへ田舎から好青年がやってきたんや。

 

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●小米のマクラは ほんまもん
(2007年6月5日朝日新聞)

噺家(はなしか)はマクラでよく大げさなことを言いますが、小米の鳥取ばなしは全部ほんまのことです。食べ物にまつわる話が多いんですが、これがカルチャーショックの連続。鳥取出身の彼は、大阪に出てきて初めて食べたものが仰山(ぎょうさん)あるんです。その一つがハンバーグ。私の家で出した時にちっとも食べへんさかい、「ハンバーグや。うまいで」と言うたら、「馬のうんこを固めてるんですか」と聞きよった。「食卓にそないなもん載せるわけないやろ」とえらい怒ったんやけど、彼の頭の中にはそれしかないねん。今から30年以上も前のこととは言え、ハンバーグを知らん若者がいたとはなあ。当時、鳥取にハンバーグは無かったと言うんや。鳥取で横文字の食べ物ちゅうたら、ラーメンとライスカレーしか知らんかったと。ラーメンって、横文字かいな。家が農業をしてたこともあるからやろが、普段、彼の食べるもんちゅうたら、自分とこで採れた野菜と、焼き魚か煮魚。それにご飯と漬物ぐらいやったそうな。肉は祭りの時に家で飼(こ)うてる鶏を絞めて食べるぐらいで、牛肉や豚肉は食べなんだ、というより、当たらなんだそうや。鶏や豚は飼育して都会へ売りに出すもんという感覚やったらしい。牛は田んぼや畑を耕すのに一頭いてただけやったそうやしね。けど、考えたら豊かな暮らしやなあ。自給自足できるっちゅうのは。ほんまもんを口にすることが難しくなってくるこれからの時代、小米はもっと大事にしとかなあかんな。たまに実家から野菜やとか果物を送ってくれるんやが、これが実にうまいねん。彼は田舎育ちやったさかい、力仕事はできるし、何事にも熱心に取り組むし、落語もうまいし、おまけに男前やし、言うことない、と言いたいんやが、無類の酒飲みやった。親父(おやじ)さんの血を受け継いだんやろな。いったん飲み出したら止まらへん。ぐずぐずになっても飲んどる。うちの一門は昔から酒好きが大勢いてた。枝雀、歌之助、米太郎……けど、皆死んでしもうたからな、今では小米が一番の酒豪や。彼の酒にまつわる話は次回、腰を据えて。

 

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● 弟子と師匠 酒が入れば友達や
(2007年6月12日朝日新聞)

普通、内弟子ゆうたら酒や煙草(たばこ)は禁止なんやが、うちは随分ゆるかった。私が両方ともやるからな。殊に酒は相手があってこそのもんやさかい、弟子にもどんどん勧めました。- 3 –
昔から強うて、今でもよう飲むのが小米ですわ。彼とは彼が入門した頃から飲みながらの芸談に花が咲いてね。私が「もう寝え」と言うと、バーッと弟子部屋に戻ってメモしとった。で、書き終えたら、もう一杯飲んでから寝るんや。ほんまに酒が好きやったんやなあ。ただ、しくじりも多かった。「小米! 今日はわしが飲むさかい、帰りのタクシーでは道言うてくれよ」と頼んでも、いざ宴会が始まると彼のほうが先に許容量オーバーして、帰りの車で熟睡。10回中、9回は私の肩にもたれて来よった。京都・木屋町のお茶屋の天井を抜いたこともあった。酔うて2階の窓からポンと飛び降りたら、ズボッと1階の屋根を突き破ってね。あれ、修理代なんぼ払うたんやったかな。内弟子を卒業してからも、小米は私の家に来ては、一升瓶をそおっと持って帰ってたそうや。その時分、うちにはいつも一升瓶が20本ぐらいあったんや。落語会やなんかでよう頂いてたからな。四斗樽(だる)もあった。「仰山(ぎょうさん)あるさかい、1本ぐらい持って帰ったほうが助かりはる」ちゅうて勝手な理屈つけて、わざわざ一升瓶が3本入る鞄(かばん)を買うてきてやで。こないだ聞いたら、年間百本、15年で千五百本は我が物にしたそうや。もっとも、近頃はお返しにええ酒を持って来よる。けど、なかなか返し切れへんやろな、千五百本は。ほんまは、誰にも邪魔されんと、1人で飲むのが一番好きなんやて。で、誰かと飲むんやったら、私の家で私と飲むのが最高やと言うてた。なんでやと訊(き)いたら、「いつでも寝られるし、何の気兼ねもないから」やて。師匠の家やで。大概、気兼ねするもんやけどな。むしろ、筆頭弟子のざこばのほうが気ぃ遣(つこ)てるで。小米は、とみに最近、私には遠慮のう喋(しゃべ)って来よる。私が飲み過ぎたり、ぐずぐず言うた時なんか、家族の者以上に厳しい口調で私を叱(しか)りつけよるんや。小米はもう弟子と言うより飲み友達みたいなもんですわ。

 

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● 独演会 ネタ選びに小米の下心
(2007年6月19日朝日新聞)

私は40代の後半から大きなホールで独演会を開くようになりました。が、その演目を決める時、参考にしたんが小米の意見です。私らのお客は演目で落語会を選ぶという風潮がありました。「この前もそれ聴いたから、違うネタをやってくれ」という投書も来たしね。まあ、いちいち投書に従うわけにも行かんけどな。小米はその辺りの事情や私の好みもよう知ってたからね。それと、彼にも下心があってね。自分がやりたいネタを私にやらせて、袖でそおっと覚えようという魂胆やったんや。私の独演会のパターンは、前座の次に私が出て一席喋(しゃべ)る。その後、枝雀かざこばが出て喋って、次にまた私が喋って、中入り。休憩の後、私がもう一席喋るという風に、1人で3席喋ってました。この、枝雀やざこばが出る位置を「膝(ひざ)がわり」と言いますが、ここに出られるようになったら一人前や。私と色の違う芸風で会場を沸かして、なおかつ、会の雰囲気を崩さんようにせなあかん。自分のネタに関しても、3席の彩りを考えんならん。うちの師匠(米団治)も3席出す時は彩りを気にしてました。私は若い頃は何でもええと思てたけど、年をとるにつれ、その重要性がだんだん分かってきた。ネタの並べ方によって、やりやすくも、しんどくもなるんです。小米が内弟子だった頃に、私は大阪のサンケイホールで独演会をスタートさせました。「宿屋仇(がたき)」「愛宕山」「算段の平兵衛」という40分の大ネタを平気で3つ並べてました。京都の会では、昼夜でネタを全部変えて、1日に6席喋ったこともありましたよ。当時はいたる所から独演会の依頼が来てたさかいね。お陰さんで、全国どこへ行っても満員やったな。一遍も行ってない所があれば、意識的にそこを回るようにしてたね。行ってない都道府県はありません。若いからこそできたんやな。弟子連中は、私の独演会に出るとなると、そら緊張したやろけど、やりがいはあったと思います。「クラシックを聴きに来るお客のようだ」とは、サンケイホールの支配人だった吉鹿徳之司(よしか・とくのすけ)さんの言葉。ほんに、お客さんには恵まれました。

 

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フェイスブックにアップされた桂米二さんの追悼文を下記に掲載します。

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桂 米二
4月28日 ·

追悼 桂小米

昭和44年入門。「ちゃあちゃん(うちの師匠、桂米朝の愛称。『あ』にアクセントがある)が初めてあの子を連れて来やった時、とうとうこんなことが起こったと思た。隠し子やと思たんや」とはママ(米朝夫人)の弁。まったくの勘違いではあるが、それほど似ていた。

鳥取県西伯郡出身。最初は訛りで苦労したと聞く。「訛りを克服したのは浄瑠璃(義太夫)のおかげ」とよく言うてはった。私が聴き始めた頃は訛りのかけらもなかった。それでも「うかっとすると訛りが出るから」と、細心の注意を払ってしゃべっておられた。一度、気になった訛りを教えてあげたら、「よう言うてくれた」と感謝された。

その後、鳥取弁をあやつる落語もやっておられたが、こっちのほうがネイティブで生き生きとしゃべってはったかな?

私が最初に聴いたのは「田楽喰い」。まだ桂すずめだった。当時「寄合酒」はやる人があったが「田楽喰い」はあまりやり手がなかった。「電線にでんでん虫が感電し……」は小米兄ちゃんの作と思う。噺家にも男前が居てはるんや、と高校1年生の私は感心した。

当時はまだまだ若手だったが、大ネタも聴いた。一度、FM大阪の公開録音の会で、前座なのに「高津の富」をかけてはって、しかも凄く出来が良かった。今もその録音は残っているが、カセットテープなのでちゃんと再生できるかな?

高校3年の夏休み、桂米朝の元へ弟子志願に行ったが、この時、師匠には会えなかった。応対してくれたのが小米兄ちゃん。その頃はすずめから小米になっていた。「今、内弟子が3人も居てるから、お宅にどれだけ才能があっても弟子にすることはでけまへんのや」とはっきり断られた。もう来るな、と言われたように思ったが、私はあきらめなかった。小米兄ちゃん、あきらめなくて良かったでしょ?

その日、米朝師匠には会えなかったけど、小米さんに会うてしゃべれた……とも思った。ちょっと憧れてたのだ。
桂米二として最初の日、つまり弟子入りした日は、吉朝兄さんの年季明けの祝いと師匠の誕生日の(遅めの)お祝いがあった日。1976年11月14日のこと。

主役の吉朝兄さんを「吉朝を送ろ!!」と前の川へ突き落した(「風の神送り」のパロディ)伝説の日となった。その夜、大勢の兄弟子が米朝宅へ泊った。みんなが寝る布団を敷いてると、小米兄ちゃんに「ちょっと来い」と呼ばれてこんこんと説教された。内弟子の心得みたいなことを言うてはるんやけど、酔っぱらってるから意味不明。それを長時間ずっと正座して聞いていた私はまだウブだった。

後日「この間はいろいろ言うていただいてありがとうございました」と言うと、「俺、そんなこと言うた? 全然覚えてへんわ」と返された。こちらは「はあ?」だが、そういうと周りでこっちを見ながらクスクス笑てた人が居た。みんな酔っぱらいの戯言と知っていたのだ。入門したての19歳がそんなことを知る由もないのだが。とにかく、酒飲み伝説は凄かった。

ママが「小米君がこっちの野菜は不味い。ようこんなもん食うてるわ、とこんなこと言いやるんや。なんでそない偉そうに言うの、と思てたんや。ほたら鳥取から野菜を送ってくれはって、それ食べたらほんまに美味しいねん。あの子が言うはずやと思た」とこんな話を聞いた。農家出身の面目躍如。

米子で「桂米朝独演会」があった時、落語会の前に一行で小米兄ちゃんの実家へお邪魔した。米朝、枝雀、米二、当時の米朝事務所、田中社長と。もちろん小米兄ちゃんも一緒に。ご両親に初めて会うた。

お父さんがシャイでうちの師匠に会う緊張を紛らわすためか、もう昼間から飲んではって、しきりにうちの師匠にも酒を勧めてはった。当然、師匠は「出番前ですから」と固辞されたが、何度も勧めてはったのが可笑しかった。親子で大酒飲みだったのである。

男が見ても惚れ惚れするええ男なので、さぞかし持てたのに違いない。でも浮いた話はあまり聞かなかった。うちの師匠が「お前、祇園の○○のママに惚れられてんのやろ。一ぺんぐらい言うこと聞いたれ。衣装つくってもらえるかもしれんぞ」と言うてたが、小米兄ちゃんは絶対「うん」と言わなかった。もったいないなあ、と私は思ったが、よく聞いたら相手はおかま(失礼!)さんだった。そっちのほうからも持てたのだ。

大酒飲みだが、酔うと凄く可愛い。「動物園の檻の中へ入れて、前に『酒飲み』とか『酔っぱらい』という札をぶら下げといたらええねん」とよくうちの師匠が言うてた。酒ぐせは悪くない。というか、ぐずぐず言うてるけど周りの人が微笑ましくなるという感じ。落語に出てくる酔っぱらいに一番近い。

うちの師匠とは「飲み友達」と公言していた。弟子の分際でそんなことが言えるのは小米兄ちゃんだけ。師匠のお宅へ泊った回数は断トツで1位に違いない。小米専用の赤いかい巻まであった。何も自分が持ち込んだ訳ではなく、たまたま師匠の家にあった物を自分の物にしていただけなのに、他の人が使うと怒ってた。

少しうちの師匠が弱ってきた頃のこと。昼からお邪魔したらまだ師匠は寝ていた。たまたまその時に小米兄ちゃんがやってきて、まだ寝ている師匠を見て「いつまで寝てまんねん。早う起きなはれ」と言いながら、布団をパッとめくってしまった。見ていた私はあっけに取られたが、それで師匠はちゃんと起き上がったのだ。まったく怒りもせずに。さすがは飲み友達である。

落語のほうは、スケールが大きかった若い頃と比べると、ちょっと伸び悩んではるなあ、と思う時期があった。失礼ながら、おとうと弟子の私はそう感じたのだ。うちの師匠も同じように思てはったようで、何人かで飲んでる席で、最近の小米は……という話になった。「もっとしっかりせえ。ええか、お前は本命やったんやぞ」と大きな声で師匠に言われた時、小米兄ちゃんは泣き出した。横に居た私は辛かったけど、小米兄ちゃんの実力はこんなもんやない、とも思た。今から思うと、体調に異変が始まった頃なのかなあ。

私の落語は認めてもらってたようで、何の時だったか覚えてないが、やっぱり飲んでる席で知らない人に「米二はこれからの男です。もっと聴いてやってください。聴いてもろたら分かります」と力説してくれた。嬉しかった。

「軒づけ」の忠臣蔵五段目の文句、「またも降りくる雨の足、人の足音とぼとぼと、道は闇路に迷わねど」と私が言ったら、小米兄ちゃんが「違う違う。『道の闇路」や」と言うてくれはった。それは私も分かっていて、確かにうちの師匠はそう言うておられる。「でも文楽でも歌舞伎でも『道は闇路」なんです」と私は逆らった。「何言うてるねん、お前は間違うてる」と言われて、もうそれ以上は言えなくなった。次の日の朝、電話がかかってきて「すまんすまん、あれ『道は闇路』やな。床本調べたらそうやった。ということは、ちゃあちゃんが間違うてはるんやな」と言われた。自分の間違いはあっさりと認めて謝ってくれる兄弟子だった。

2000年代に入ってからは気の毒なことが続いた。股関節の病気(なんという病気やったんやろ? 病名は知らない)で正座ができなくなった。それで大手術をして、股関節が全部チタンになった。その時から小米兄ちゃんのメールアドレスに「kokansetsu」の文字が入った。前向きに考えてはったんやろな。

正座ができるようになって、良かったなあと思ってたら、今度は声が出にくくなってきた。ガラガラというかザラザラというか、小米兄ちゃんの声ではなかった。一時的なものではなく、それが長く続いた。喉頭がんだったのだ。

京都のある会で聴いてて、前よりも声はひどくなってるなあ、と思っていた。降りてきて「俺はもう二度と出えへん。もう落語せえへんねん」と吐き捨てるように言った。それが桂小米の生の落語を聴いた最後の日となった。2009年10月23日のこと。

 

それから長い間会わなかった。こんな噂を聞いた。手術して声帯を取ったらしいと。連絡しても返事はなかった。人と会うのが……いや、元気にしている仲間と会うのが辛かったんやろなあ。

2015年3月24日と25日、うちの師匠の通夜と葬儀の日。この日は小米兄ちゃんが来てくれるんやないか? 私だけではなくてみんなそう思ってた。一番の飲み友達が亡くなったというのに、やっぱり来なかった。もう会えないのかなあ。

2019年5月30日、突然……本当に突然、メールが来た。小米兄ちゃんからメールや。「今、園田に住んでる。園田で会やってるんやなあ。ポスター見たわ。頼みがあるんやけど、落語関係の本や物、貰ってくれへんか」とのこと。園田の会とは「阪急園田駅前落語会」のこと。今は会館が建て替えで休会になっている。「喜んで頂戴します」と伝えたら、すぐに宅配便で送ってくれた。段ボール箱二つ。こんなにたくさんあるとは。
中身は本やCDの他、雪駄や袴板、腰紐に扇子、手拭に帯も。着物があれば今すぐ高座に上がれるがな。すでに持ってる物は二豆に譲ったが、あとは大事に残してある。すぐにお礼のメールを送った。「園田に居てはるんやったら、落語会に顔見せてくださいよ」とお願いした。

それから約2ヶ月後の8月12日、本当に「阪急園田駅前落語会」へ来てくれた。外で待ってたら、昔とほとんど変わらない小米兄ちゃんが近づいてきた。思てたよりも若い!! 右手を軽く上げて「よっ」と言いながら、見慣れたポーズで。それに相変わらず色は黒いし。

完全に声が出なくなってるので、筆談でいろいろと話した。成之介君(長男)が銀行の支店長になってるとか、ちょっと誇らしげに。私が一番気になっていたのはお金のこと。それにも答えてくれた。「がん保険入ってたんで助かったんや」とのこと。見た限り、声以外は前と変わらず、健康そうに見えた。けど「がんが再発した」とも。
ではまた、と言うて開演前に帰ってしまった小米兄ちゃん。会うたのはそれが最後。たぶん仲間内で最後に会ったのは私であろう。その後、また連絡は来なくなった。

2021年4月26日没。享年70歳。
合掌

兄弟弟子って濃い仲やなあ。実の兄弟より思い出がたくさんある。

珍しい写真が見つかった。桂枝雀と桂小米のツーショット。

二人とも酔ってる。1989年8月1日、文之助(当時は雀松)兄のお宅で。
PLの花火を観に行ったのだ。

もう1枚は旧サンケイホールの楽屋で。
1994年8月30日。桂米朝、小松左京先生の顔も見える。

要するに私と小米兄ちゃんのツーショットは見つからなかった。

 

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