投稿日: 2022年10月16日

「10月10日」…
その「特別な日」&「ひとすじの糸」

1964年の東京オリンピック以降
10月10日 は 特別な日…

いかにも「日本」を感じさせる「体育」の日
…だったはず

本格的にスポーツする…
というより家族や近所のみんなが集まって
みんなで一緒にごく身近な健康運動

一、二、三・四と体操してる…
子供の運動会やラジ体操がよく似合う

この特別な日を
2000年からは10月の第2月曜日へ
「ハッピーマンデー」
と呼ばせ…

2020年以降、今度は
「スポーツの日」
と呼ぶようになったそうだ

…つい行き過ぎ感の強い「ポリコレ」を思い出してしまう
ポリコレ
= ポリティカルコレクトネス…Political Correctness…政治的正当性
「民族・宗教・性別・文化の違いなどによる偏見・差別のない、中立な表現を用いることにしよう」
という訳だが

他国はともかく
日本はもともと偏見や差別は極めて少ない国だった…
その日本語表現に
差別的発想はない

メリークリスマス→ハッピーホリデイズ
セールスマン→セールスパーソン
ビジネスマン→ビジネスパーソン
看護婦・看護士→看護師
保母・保父→保育士
スチュワーデス・スチュワード→客室乗務員、フライトアテンダント

なんでもかんでも
ニュートラルにしようというのは
「差別的発想を持つ者」
が考えだした業だと思う

多様化…ダイバーシティ
国際化…グローバル

の波にまみれ
性別や国籍、身体的特徴といった違いを差別なく平等に扱おう…
もっともらしい理由のようだが

⚫︎⚫︎に染まった人たちにとって
…その思想にそぐわない意見を封じ込める
ポリコレの欺瞞(ぎまん)を感じ
居心地が悪く違和感を禁じ得ない
このポリコレ過剰社会に不安を感じる

日本特有の文化や歴史から生まれた言葉を
今の時代人の味覚に合うようにわざわざ変更していく…

一体どこまでその正当性があるのか…?
「お嫁さん」もダメ
そして
「共稼ぎ」もダメで「共働き」
「興信所」→「民間調査機関」

これでは何をどう表現していいか分からなくなってしまう…
惑わせるだけだ

日本は 外圧に弱い といわれるが
むしろ
日本は 外圧を利用して 発展してきたはずだ

「右へならえ」式に
他国を盲目的に真似るのではなく

日本的「…らしさ」、伝統
日本人独特の美意識…に沿って
古来から伝わる日本語の
繊細さ
奥深さや
価値感等 を護りたい

「平等、多様性、合理性」などの美名のもとに
やみくもに変えてしまう昨今の風潮に寂しさを通り越して危うさを感じる…

知らぬ間に徐々に浸透しつつ忍びよる影…
何か見えざる意図によって
あらぬ方向に向かわせようとしているのではないか…
と勘ぐりたくもなる

10月10日=体育の日

10月 第2月曜日 =「ハッピーマンデー」→「スポーツの日」→??

+++
少し横道にそれた…

いずれにせよ
どうやら
日本人にとって
「10月10日」
はもはや

「特別な日」

ではなくなった…
かも知れないが…

私にとっては
人生の半分が米国暮らしとなった
今でも
特別な日
であることに変わりはない

私にとっては………

生まれてはじめての
「結婚式」
という言葉につながる

結婚式に列席…
米子のとある小さな神社だった…
今はもうその面影はない

姉の結婚式…
姉は
終戦と同年同月
昭和20年…1945年8月生まれ

幸薄く
幼少期より病弱で難聴、腎臓病を患い、病院通い…

一方…

子供の頃から
スポーツでも勉強でも
競争心が強く
意地っ張りで負けず嫌いの
彼女の弟たち…

すなわち
5歳年下の 私
8歳年下の 弟

私たちは
負けん気の強さが災いして
兄弟喧嘩をしては
母を 怒らせ困らせたが

今振り返ると…
私たち兄弟とは真逆の性格の
姉にも どんなにか悩ませ悲しませたことだろう

自宅療養の日々が
生涯続いていた

あの身体ではとても
結婚など到底考えられなかった

私たち周りも
そして
本人も…
その姉の奇跡の
結婚式…

ごくごく身近な人たちが集まってくれた
1970年 10月10日

その後も
療養を続けながらの結婚生活
私の米子の実家で
みんなが一緒に暮らした

ただ、私はその時は
広島での学生生活
彼女の伴侶、旦那さん
になった人は
そんな彼女と知りながら一緒になってくれた…

口数は少なかったが
時折、強烈な米子・安来弁・言葉で
冗談を言っては周りを和ませた

思い出すのは…
穏やかで手先も器用で心優しく
木彫りの小さな仏像をたくさん作っていた…
専門家はだしの登山家で大山の話をよくしてくれた
そんな義兄

姉は
その旦那さんよりも
むしろ私の方を愛おしく思ってくれているのでは…
と感じるまでに
私の大学時代
広島から米子に帰省の折には
いつも跳ねるほどに喜び
温かく迎えてくれた

10月10日…
この特別な日は
私自身の
結婚記念日
にもなった

今年は44度目…
つい先日迎えた

1978年 10月10日
結婚式当日
自宅療養の姉が戸口で
「ごめんね、行ってあげられなくて…」
と、式に向かう私を涙ながらに見送ってくれた
…その姿が目に焼きついて離れない

私たちの結婚式は
予てからの希望で 出雲大社

出雲は…
幼少期…まだ米子に引っ越す前だったと思うが
(古事記、日本書紀に記された)
スサノオノミコト の ヤマタノオロチ退治
の舞を何度か見せてもらった
その子供心に強烈な記憶が
愛おしく懐かしい

ハネムーンベイビーの長女
の誕生は翌 1979年7月7日
「なっちゃん、なっちゃん…なっちゃんに会いたい…」
と切ない…うわごとのような
姉の声が生き生きと蘇る

願い叶わず…
いつも「佳子ちゃん…」と
私が呼び続けた 姉 は
翌 正月
1980年1月5日
その人生の幕を閉じてしまった…

戦後の混乱期
35歳のあまりに短かい生涯だった

彼女の写真アルバムには
自分用にとって置きたい…と
とっても気に入ってくれていた
私の写真があった
学生時代
私は広島から
1970年、大阪万博に向かった…
華やかな背景のその写真が
姉のアルバムに収まっていた

何度も見返してくれていたのだろうか…
合わせて思い出すのは
1969年
私の広島大学1年の折
彼女の人生おそらく初めての旅…

その遠い昔…
私が小学1年生の頃だった故
1950年代半ばごろだったろうか…
島根県矢上高校
父の教員宿舎
集合住宅時代
私の 自転車初乗り練習 に
姉と共に後ろを支えてくれた
当時のその親友を訪ねての
広島訪問だった
(*この自転車は今でも米子の実家の倉庫に眠っている)

++++++
私たちの 結婚記念日
「10月10日」
それが
出雲、佳子ちゃん・姉、長女…
「ひとすじの糸」がつなぐ ー
++++++

つい先日
「竹内まりや」
の実家が出雲にあると知り
急に親しみを覚えた

NHKの連続テレビ小説
(2008.0929-2009.0328)
「だんだん」
を思い出した

その頃は
私もテレビをよく見ていた
この物語の舞台は
島根県・出雲 と 京都

++++++
余談だが…この頃

2008年 は
私が個人事業主に返り“咲いた”年

2009年 は
盛和塾、稲盛さん…その強烈な人生哲学…
「人は何のために生きるのか」

「生きてゆくことの意味」
との
出会いの年

++++++
物語のタイトル
「だんだん」は

子供の頃、
(米子では使われなかったが)
出雲や私の生まれ故郷・広瀬ではよく耳にした…

「ありがとう」
という感謝の意味
出雲大社で出会う双子の
ヒロインの一人が三倉佳奈…

+++++
私の姉の名は  佳子
私の長女の名は 奈月
+++++

この「だんだん」のテーマソング
「いのちの歌」の作詞者…竹内まりや
…。
ソングライター・作詞家・作曲家、ミュージシャン・音楽プロデューサー。出生名も竹内まりや。結婚後の本名は山下まりや。島根県簸川郡大社町杵築南出身。 生家・実家は出雲大社・二の鳥居近くに在る1877年創業の老舗旅館「竹野屋旅館」。父親は4代目竹内繁蔵。夫は山下達郎。
++++

「いのちの歌」
「愛」がテーマ
「産んでくれてありがとう」
「育ててくれてありがとう」
「あなたに出会えてありがとう」
今、静かにこの曲をかみしめる
https://music.youtube.com/watch?v=HdlQeucQgDI&feature=share

…….
生きてゆくことの意味
問いかける
そのたびに胸をよぎる
愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅で
めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも大切な宝物
泣きたい日もある
絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて
寄り添うあなたの影
二人で歌えば
懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの
優しいあのぬくもり
本当にだいじなものは
隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に
かけがえない喜びがある
いつかは誰でも
この星にさよならを
する時が来るけれど
命は継がれてゆく
生まれてきたこと
育ててもらえたこと
出会ったこと
笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう

+++
「ひとすじの糸」 がつながる…

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