投稿日: 2021年02月10日

戦火を免れ、
日本・呉 →フィリピン → 米国…

そして今

宛先の地、熊本 に着いた…。

今、やっと ご家族の元へ…

+++++
1月15日…「これ読める人?」
と、
娘から家族のLINEグループのメッセージ。

「軍事郵便」の
その「はがき」の差し出し人は

海軍大尉のMさん。
あの懐かしい
「候文」で綴られた
故郷の父親宛ての便り。

「神風特攻隊に遅れを取り生存致し居り候」

敗戦色濃い戦況を肌で感じながら
死の覚悟。自らを気丈に奮い立たたせている…

生々しい一字一句の文調に
私の幼少期の思い出が蘇る。

又、

昔よく聴いていた軍歌が重なる…

「楠公の精神に候にて突進すべき…」

圧倒的に不利な戦いの中、
命を賭して挑んだ戦国の武将
「楠木正成」の名がその
「はがき」の中で勇ましくも悲しい…

その真の胸の内、思いを抱き続け…
「はがき」を手放すことなく
広島・呉港からフィリピンの戦場へ。

目前に迫る「その日」を覚悟し
「大和魂」を振り絞って…。

「防空壕など内地のものは全く児戯に等し」

上層部に対する皮肉めいた言葉は
身内宛て故の率直な気持ちの表れだろうか…。

「検閲」下の郵便事情の中…
M大尉は、投函しようか、すまいか…
逡巡しておられたのでしょう…、

「仲良く御暮らしの程、念じ候」

遥かかなた…故郷・熊本の
愛する親族への想い…

ありのままの気持ちを伝えたい一心、
伝えきれない精一杯の言葉が
「はがき」全面に並ぶ…

…この「はがき」は、
遂に、投函されることはなかった。

そして、M大尉は、
最後の最後まで、それを手放すことはなかった…。

+++++
聞けば…
娘の高校時代の友人が

Facebookを通して
「日本人」の娘を探しあてた。

「ハガキ」の内容を知りたかった…
と言う…。

彼女のその友人は、
隣人(Rさん)のガレージセールで
たまたま「はがき」を見つけ

「何やら珍しいものが…」

と買い求めた…。

Rさんは、
元ベトナム戦争空軍兵士

このRさんの友人=元従軍記者。
この従軍記者が奇跡の「はがき」を
76年前、戦火のマニラから
アメリカに持ち帰った…。

彼は数年前に亡くなったが、
この「はがき」をRさんと共有していた。

「はがき」の表面には

This card found in the ruins of
Hotel Manila .. March 4, 1945

「1945年3月4日、
マニラ・ホテルの廃墟の中で発見」

のメモが書き添えられている。

このメモの日付、
1945年3月4日は
「マニラの戦い」の終わった、
その翌日…

マニラの戦い…

大東亜戦争・第二次大戦末期、
日本軍と連合軍の市街戦。

1945年2月3日から同年3月3日
の戦い。

日本の敗戦により、
3年間に及んだ、
日本のフィリピン統治が終わった…。

「はがき」の表面には
住所と名前の記載がはっきり残っている。

もしかして

「奇跡のはがき」

になるかもしれない…

「76年」の時を経てもなお
息づき、訴えかけているのだ…

万感胸に迫る
一枚の「はがき」

ただ…

差し出し人
受け取り人

その喜びを交わすことは
もはやない…

でも、
せめて

ご子孫…

ご子息、ご息女は?

差出人や受取人につながる
「誰か」ゆかりの人は…?

時を経て

フィリピン → 米国 → 日本

この「はがき」の然るべき

「安住の地」宛て

早く、何としても届けたい!

+++++
…今、
2021年2月10日

願いは叶った。

「はがき」の差出人・M大尉の
たった一人のご子息が実在していた!

私よりずっと年配…(のはず)
でも、元気でおられた!

その人に、
無事お届けすることができたのです。

奇跡!

まさにこのタイミング、
誰一人欠けても叶わなかった…。

76年の歳月…

1945年3月4日〜 2021年2月10日

R元空軍兵士も涙を流して喜んでくれた。

この願い…

関係者の方々には
大変ご尽力頂きました。

この「はがき」の長い長い旅の一翼を担えた事、

今は、
ただただ安堵、
喜びと感謝の気持ちで一杯です。

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