投稿日: 2024年11月24日

ハロウィーンの日…、
– Halloween —

シカゴ郊外、
私達の住む町ディアフィールド市は
このところようやく、
冬らしい気候になってきました。

天気は良かったのに、
車内の温度計は、
外気温、華氏38度 (摂氏3.3度)
を示していました。

夕方になると、
この日はいつも、
近所の子ども達が

「トリック・オア・トリート」
Trick-or-Treat

の黄色い声とともに
我が家にやって来ます。

私達がシカゴに来た当初、
かなり以前になりますが…、
(1990年台までくらいかな~)

次から次と、
とってもたくさんの子ども達が
やって来ました。

なので、
我が家でも相当な数の
クッキー・お菓子を用意していたのでした。

勿論、
我が家のちびっこ達も
幼い頃は、

姉妹と一緒だったり、
友達と連れだって、

嬉々として出かけて行き、
キャーキャー騒ぎながら
次々、近所の玄関のベルを鳴らしては
この日ならではの
「近所巡り・ゲーム」
を楽しんでいました。

帰って来るなり
ハロウィーン・クッキーを
床一面に拡げては

どんなの を
どれだけ たくさん
「戦利品」を
勝ち得てきたのか、

競っていました。

でも、
我が家の子ども達が
大きくなって、
学校を卒業する頃になると、

そんなゲームも
すっかり 色あせてしまい
廻りの近所もめっきり静まりかえるようになっていました。

特に、
やはり2001年、
あの「9.11」の頃からでしょうか…。

年によっては、
小さな訪問客が「ゼロ」
の事もあり、

あの何だか華やいだ気持ちにさせてくれていた頃を思うと
何となく
うら寂しい、
物悲しい
気持ちになります。

あのひっきりなしになるドアチャイムの音が
懐かしい…、
と思ってしまうのです。

(実は、私自身がお菓子を直接手渡したことは
ほんの数えるほどしかないのですが…。)

でも、
この過去数年間の中では、

今年は幾分ましだったのかも…。

6 グループ (6回)

の子ども達がやって来ました。

ピン・ポーン
と鳴るたびに、

「ハイハイ」  と
喜んで
玄関の扉を開けるWifeでした。

昔は子供達だけで来ることが
ほとんどだったのだけど、

このところは、
必ずと言っていいほど

子ども達の後ろには
「親の付き添い」
があります。

それも、複数の家族単位
でやってくることが多い様です。

(a) 私の家、
(b) 近所、
(c) 3人の娘たちの職場(小学校、会社)

でのハロウィーンを
集めてみました。
(写真)

++++++++++++++++
「十年一昔(じゅうねんひとむかし)」
と言います。

でも、
今の私の体感覚は、

どうやら
この年月の流れが
麻痺しているみたい…。

なのです。

2・3年前が、

「ずいぶん以前」
「はるか昔」
のように思えてみたり、

この町に移り住むようになった
1990年当時  が、

或いはもっと以前
本当に、
「はるか昔」 が、

「ついこの間」
の出来事、

に思えてしまいます。

私が
高校を卒業するまで育った
鳥取県の米子から

学生時代を過ごした
広島に移った頃、

それまで
安心安定(?) の
日々慣れ親しんだ
日常…。

あまりに 気安く
あまりに 気軽に
何でもかんでも、言ったりしたり…、、
の毎日。

病弱だった姉を除けば、
所謂、普通の家族環境・関係。

母子家庭だったこともあって
母は毎日仕事と家事の時間に追われていたけど、
何一つ不自由ではなかった。、

只、家族一緒に出かけたりすることは無く、
(県外には修学旅行くらいのもの)

乗り物に乗って出かける、と言っても、
隣町、安来にある親の里への旅
しか考えられなかった。

「勉強しなさい!」
「遊んでばかりじゃダメ!」

と、
母をイライラさせながらも、

その目を盗んでは
陰で、自製の紙で作った

カーレース や
相撲
のゲームに

我を忘れて
何時間も興じていた。

一方で、

学校や塾で、
(…番) になったとか
(…長) に選ばれた、
と言っては
母を喜ばせるのは楽しかった。

そんな何気ない
ごく普通の、

家族との

泣き、笑い、ケンカ、
悲しみ、喜び…。

そんな
平凡で平和な
家族たちとの暮らしが、

未来永劫
ずーっと
ずーっと
続くと思っていた…。

でも、
ある日
「突然」、
そんな日が終わりを告げたのでした。

「又、すぐに帰って来るよ…。」、
と言う軽い調子で
さっさと

広島へ…。

でも、いざ一人で
4畳半のアパートに住み始めてみると、
味わった事のない妙な気持ちに…。

暫くの間、ずっと、ずっと、

ふるさと
「米子」  が

恋しくて、懐かしくて…、

私を見送った時の
悲しそうな母の顔が、

一方で
楽しそうな姉・弟の
笑顔が、
言葉が、

忘れられなくて…。
何なんだろう、
この感情は…?

でも…、

その「決断」の結果、
その「決断」のおかげで、

それはそれは
とてもとても

「明日が楽しみ」


「広島」
が始まりました。

+++
(今思えば…)
当時は
あの原爆の日から
24年経った程度だったのですね~。

でも私の広島は
そんな暗い影を
全く思わせないイキイキした町でした。

奇しくも東大入試中止の年…。
昭和44年。

学生運動真っただ中
そんな学生生活が始まりました。
そんな新しい日常は、
変化に富んで面白かった。
+++

私が自ら
進んで、好んで

「決断」

した訳ではないけど、

米子 から 広島 へ

環境が大きく変わりました。

結果的には、

覚悟して、
米子を発った・断った…。

「決めて断った」、
「決断」

したことになります。

新しい土地では、
勉強に、
ではなく、

「旅の宿」 の 吉田卓郎、
フォークソング…。

「ブルーシャトー」 の ブルーコメッツ、
グループサウンド…。

エレキギターの
ベンチャーズ…。

そして
加山雄三、
を歌い、

麻雀、バドミントン、ランニング、
遠征・合宿、バイト…。
の日々。

男も女も
先輩も後輩も…
ない、

文字通り
昼も夜も
ない、

そんな仲間

「あいつ」 たち
「あのこ」 たち

との時間
でした。

いろ~んな体験、
何もかも真新しく、
めずらしく…
そんな日々だった。

結構
チャレンジし、
無茶もしました。

それまでの…、

高校までの
米子時代。

家と学校の往復生活、
受験勉強…。
(とは言え、暗いものでは決してなく)
それはそれで
「平和」で楽しかった。

受験勉強すらも
ある意味、
ゲーム感覚もあったし…。

でもそれを結果として、

「断ち切った」

ことになります。
世間一般の人が、
親元をはなれる普通のパターンなのですが…。

いずれにせよ、
私にとっては
真逆に近い生活になりました。

過去の延長線上にない
次元の違う日々でした。
新鮮な出会いと感動がありました。

今思えば
不思議な
夢見る4年間…。

例えば…、
中村雅俊の
「俺たちの旅」
「ふれあい」

の歌やドラマ
の主人公とその仲間たち
そのものだった。
私達の事を
ドラマ化したのかと思ったくらい…。

今でも、
狂おしいばかりの、

もの悲しい、
愛くるしいばかりの

懐かしさ、
が蘇ります。

…その日常には
「米子」
が消えていました。

でも、一方では…、

私が小学2年になった直後から
ひとりで3人の子どもを育ててくれた

に会うために、
盆と正月には
必ず帰っていました。

毎回、
母、米子の家族との再会は
楽しみだったものの、

別れはいつも寂しかった。
辛かった…。

特に、

母の

何かにすがるような面持ち、
何かを訴えるような声、

「今度はいつ。。。?」

それでも、
その後は…、
(New) life goes on…

面白いほど、

(当時はそんなに意識していませんでしたが、
今思えば、若さに任せての勢いがあったのかもしれません。)

決断に次ぐ決断をし続けました。

環境を変え、
人間関係を変えた、

ということです。

社会人になって「東京」へ、
中堅商社勤務。

でも、
自分の夢を優先させ、
僅か2年で

誕生して間もない
小さな専門商社へ…。

「大阪」   へ。

早々の転職を
懸念するどころか、

東京より「近くになった」
と、
「それだけで」喜んでくれた母。

その言葉が
何故か、

今でも忘れられない…。

その言葉で
ちょっとだけ
救われた気持ち、
になった事を思い出します。

気持ちばかりの親孝行
したつもりになった…。

それなのに
それなのに…、

「大阪」
の次はまさかの

「シカゴ」…。

「決断」して「実行」した
結果とは言え…、

自分でも、
「当初は」
想像もしない方向に進んでいってる…。

「いつか、世界中連れて行ってあげるね。」
と言っては、
涙の母に見送られた事が
何度あったのだろう…。

「いつか親孝行しよう」

と本気で思っていた。

でも出来なかった…。

「いつか」

はやはり
「来ないんだ…。」

「そのうちに」
「いつか」

は来ない。

もし
お金  があったら、
時間  があったら、
条件  が整ったら、
余裕  ができたら、
自信  が持てたら…

これらは
「幻想」…。

必ず来ない。
まちがいなく来ない。

やりたいことがあったら、
「この瞬間」
「今」
しかない。

その連続が人生であり、

「覚悟」
が大切、
だとつくづく思います。

人は、
人との出会いによって
人生が変わります。

そして、
覚悟のあるところ、
覚悟のある人に
人は集まり、

その人は
信頼され、
頼りにされる。
応援してもらえる。

そのためにも
自分を輝かせる未来を想い、

覚悟して決断する。
「決めて断つ」
ということ…。

どうしても
「昔」を想うと、

大声で叫びたくなるくらい
寂しいことにも出合うけど、

悲しいくらい
懐かしいこともあるけど、

それでも、
その過去の延長線上にある
この流れを
「今」、「決めて断つ」。

もうしばらくは
そんな道を選んでみたい、
そう、思います。

30代までの自分がそうだった様に…。。

それはまるで、その昔、

中学生・高校生 の「米子」から
大学生 となる 「広島」へ、
「進級し」、

次いで、
「広島」 から 「東京」 へ
「東京」 から 「大阪」 へ
「大阪」 から 「シカゴ」 への

人生の
「階段を上った」
ように…。

半ば無意識に
決断して行動、

環境を変え、
人間関係を変えて、
「成長してきた」
頃ののように…、

「今から」、
をイメージし、

「こうありたい」
を思います。

とても親しみ深い
この環境
だけど、

子ども達4人が育ち、巣立った
この家、
この町…、

そして
シカゴ…

だけど…、

私は
幸運にも、

今、
このエキサイティングで
革新的な「世の幕開け」
に立ち、

今、
素晴らしいことを予感させる
「数々」に出会い続け、

世界的な、
時代の大きなうねり・転換期に
遭遇しています。

新たな人生に向け、
別の次元に跳ねるためにも、

「覚悟して、決断する」

そんな時がまたやって来た…。

そんな息づかいを感じる今日この頃なのです。

++++++++++
シカゴ郊外の

わが町
ディアフィールド市(Deerfield)


ダウンタウン(中心街)

恒例の
ハロウィ‐ンの
派手なデコレーション

「今年はやらないのかなあ…」

と待っていましたが…、

今日ハロウィーン当日
10月31日

行ってみると…、

何と!!
(全く違う…。)
いつもの飾り付けではありませんでした…。

今年の痛ましい出来事を憂い、
平和を願う町の人の気持ちを
気遣っての
笑顔なのでしょうか…。

(写真は去年と今年、同じところから撮影)

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