広島大学・同期会、西野 そして 学生運動
広大機械工学科48年卒の同期会への案内があった
コロナ規制緩和の遅れやサミットの日程と重なって
日延べになっていた
とても残念だが今回の参加は叶わなかった。。。
今回に限ってはマスクやコロナ規制など
特に日本人に強い
横並び体質
現状維持バイアス
素直・純朴・従順
よい人…これは…わからない
他国・多民族に比べて均一故
の特徴かもしれないが
年齢を重ね、人生経験も多くなればなるほど
これに抗うことは困難…
身体、メンタルが付いていかない
打ち破るには強い覚悟と勇気…
日本国内と国外とではかなりの認識違いがありそう
ココは良し悪しは別として…としておく
いづれにせよ
そんなギャップでストレスがかかりそう~
「日本行き」の心構えが不十分だった
日本の、そして人々の、
本来の真善美、こころの平安…
早く当たり前の日常に戻って欲しいと願う
前回、コロナ前の2019年11月の会では
日程調整が上手くできた…
広島へはワイフと中国5県「制覇」の旅の途中…
島根→山口→広島→岡山→鳥取…の真っ最中
変化にとんだ密な旅程だ
懐かしの広島を離れて以降
ほぼ全員と46年ぶりの再会だったが
多くのみんなにその面影を感じた…
話し方、顔のイメージ…
「変わらないな~」と言い合ったのだが…
今年、2023年は卒業後
「1973-2023」 で
丁度50年の節目
社会人50歳ということか…
自分のことはこの際「棚に上げる」…が、
この集まり、傍目からは
相応の年輪を重ねた人たちとしか見えないだろうなぁ…
傍目からは単なる「70歳シニア」
どうも、精神年齢は
半世紀前の変わってないように思えるが
少なくとも私の場合は…
願望かもしれないねぇ
未知の人、分野、テクノロジーには興味あり
だから「現役」やってるし
こんな動画編集まで久しぶりに学び始めている
常にチャレンジの気持ちを保つのによい
半世紀ぶりに再会した友人たち…
学生時代
そんなに親しく言葉を交わした記憶のない人とも
かくも気さくに話ができる…
「同期」とはかくも不思議な縁
今回参加できない代わりに
3年半前の同期会に撮った写真とビデオを
動画化してみんなにシェアしようと思い立った
編集ソフトの操作方法をすっかり忘れていた…
単純な操作でもじりじりするくらいの時間を要す…
まぁでも、ここは脳活性化の良い機会だからと
ネット情報を参考に何とかなりそう…なった
↓
https://photos.app.goo.gl/EMDVAFPZtVJtGZHd6
こんな機会がないと
過去のこんな振り返りは絶対にしないよな…と
写真やデータ記録を見つけては記憶をたどってみる
”宴会部長”の叶君から
「よく人生を生きました!」 と締めの挨拶…
あらためて「私の広島後」の50年…
文字通り半世紀の月日を想った
長いような、それ程でもないような…
好き・嫌い、強味・弱みなど自分の根っこにあるもの
基本的な考え方、心の持ちようは
半世紀前から変わっていないと思う
その礎がまさに広島…
学生時代に築かれたのではないかと思う
わずか4年
されど4年。。。
我が人生の転換点、分水嶺…
このシカゴにまで来ようなど…転機の呼び水
50年前のデータ、写真などをみるにつけ
つくづくそう思う
そのエネルギーそのままに…
↓
https://photos.app.goo.gl/CsMxWTWPcHmVk1788
。。。極めて個人的な写真その他のデータです。。。取扱注意(笑)
広島を
今回おさらいできてよかった
広島時代を自分が
どういう環境で
どう「生きて」いたか…
当時ご縁をいただいた友人・知人たち…
写真やデータ画像に心当たりがあれば
話に何かプラスの花を咲かせることができるかも…
とヒントを探った
広島大学工学部機械工学科
同期のほとんどが技術者たちだ
私とは真逆…の人生行路?
この同期会に集まった人たちは
機械工学の専門家
技術者人生一筋に歩んで来られたに違いない
生真面目にひたすら誠実に…
私には勉学に勤しんだという記憶が全くない…
当時の写真やデータ等の資料が実に雄弁だ
充分な資料や写真は無いが
このタイミングで
私の脳細胞が何とか働いてくれている内に
言語化、視覚化させておこうと
「私の広島時代」と称して
「学部関連」を中心に当時を一部切り取ってみる…
+++
当時の大きなイベントと言えばやはり
「学生運動」に象徴される…
中国地方にあっては
広島大学はその中核的存在だった
● 学生自治を求める運動
● 反戦運動
● 反差別運動
● 学費値上げ反対運動
● 学寮の運動
● 就職活動の適正化
● 学生会館の自治要求
全国レベルではやはり
東大紛争 (1968年~1969年)
は歴史的な事実として誰もが知るところだろう…
それは~
当時私たちは丁度高校3年生…
まさに大学入試直前にその事件が起きた…
1968年、急進派学生が
自治会の統制を離れて安田講堂を占拠
大河内一男総長は
6月17日に警視庁機動隊を学内に導入し
占拠学生を退去させた
全共闘は闘争継続を主張して
安田講堂等校舎の占拠・封鎖を続けた
そして、世に言う
「東大安田講堂事件」
1969年1月18日~19日
警視庁の出動要請を受けた機動隊が
安田講堂の封鎖解除と共闘派学生の大量検挙
全共闘は安田講堂事件以後
急速に退潮し1969年中には
東大紛争は収束するに至った…
かに思えたが…
全共闘と民主化行動委員会(民青系)
が全学封鎖を巡り乱闘
加藤学長代行と坂田道太文相が会談
東大内での逮捕者は600名以上
加藤総長「非常事態」宣言
1969年(昭和44年)の東大入試は
佐藤内閣が中止を決定
1月20日、ついに東大当局が入試中止を発表
後にも先にも
東大入試が中止になった例は他にない…
なぜ私たちの時に限って…
の思いが今でも残る
この余波で
私たち、全国の高校3年生の多数が
直前まで志望校が決められなかった…
私自身、直前まで
大阪と広島の入試受験票を握り
ひたすら待ち続ける日々
結果、広島へ
「私の広島」…学生生活が始まる
期せずして、
その5年半後の1974年暮れに大阪入りした
米子から広島への入学試験の旅は
高校(米子東)で仲の良かった友人との二人旅
入学試験なのになぜか
泊りがけの旅行を楽しむくらいだった
「変化」あった方が面白い
広大正門の
目の前にある宿を予約していたのに
試験直前の日まで試験会場がどこになるのか
知らされなかった
大学正門前にはバリケード騒動
大学構内で試験…
は無理そうだった
旅館から電車で1時間
とある小学校で入学試験を受けることに…
会場に向かう際に流れていた
美しい旋律…歌声
耳に残っている…初めて聞いた
Simon & Garfunkel – The Sound of Silence
とは言え、周り・世の中全体のムードは
落ち着かないざわついた雰囲気
いつも何かが起きそうな慌ただしい感じ
全国の大学で「どたばた」続き…紛争
そんな中
地元米子の地方局ラジオ放送で
合格を知った
母は文字通り「飛び上がって」喜んでくれたが
私にはピンと来ず
それ程の実感はなかった
それでも
受験勉強からは解放され
新しい門出の方向も決まり
とりあえず落ち着けたことに安堵した
合格したものの
その後…
入学式はいつになるのか
予定は知らされず…の日々…
母に連れられ広島入りしたのは
結局6月。。。
入学式は昭和44年(1969年)6月4日
@吉島公園
この異例で特別な日を忘れることはない
この日が来ると必ず思う、今も…
あぁあの時は…
授業は休講が多かった
そして
受講中に活動家が教室内に入り込んで
中断を余儀なくされることの繰り返し
彼らと「論争する」こともあったが
取り付く島がないように思った
いづれにせよ
いわゆる「学校の勉強は」
高校までで完全に燃え尽きていた
その分余計に
若いエネルギーは外に向かった
私の場合はバドミントンという競技に~
と言うより
新天地での仲間…
ほうぼうの「異国」の地から来た友人たちとの交わりが
とても興味深かった
珍しくもあり
「田舎者には」 とにかく楽しかった
「いなか」と自分では思っていた訳ではないが
そう、みんなから思われているだろうな…と思った
「鳥取」「山陰」。。。
個人的には
鳥取・島根の国からでることがほぼ無かったので
異国のこの地は「都会」に映った
城もあるし
市内電車も走ってる
プロ野球チームもある
何でも「そろってる~」
米子→広島の始めのころは
多少ホームシック、郷愁に心が揺らいだ
下宿先のおじいさんから原爆の話を聞いた
今思えば当時は戦後わずか24年しか経っていない
生き証人だったろう
ほどなくして
交友関係を中心に
日々の暮らした一変
高校までとは別次元の日常が続く。。。
広島周辺各地からの独特の方言が面白かった
広島、岡山、山口、愛媛…
方言のそろい組と言っていいくらい
皆それぞれ特有
それに対し、こちらも当時
「米子弁」丸出しだったかもしれない…
エピソードとして…
理学部の松本君(安来出身)と話しているのを傍で耳にした
私と学部同学科同期の平君(山口出身)から
「どこかの田んぼ」で話しているようだ…と
「同じ中国地方ではないか」
「米子は山陰の東京だ」
と、うそぶき反駁を試みたが
「同じ中国地方でも 裏と表の違い、陰と陽の違い がある」
と返され
「そうかな…」と思った
ところで
広大バドミントン部は
創部からの年数が経っていないこともあり
他校に比べると極めて弱小チーム
ただ、
その分余計に身体・精神面では負けない…と
毎日競ってロードラン、トレーニング、練習に励んだ
当時は途切れとぎれの8ミリフィルムで
コート内の動きを皆であれこれ分析したものの
結局はそれぞれの見よう見真似の自己流に終始した
合宿、試合…
中国、四国、九州各地に遠征したが
他校との試合では悔しい記憶しか残っていない
相手方学校のレベルの高さ
環境の違いを思い知った
それでも毎日・毎夜
麻雀とバドミントン漬けの日々
寝食を忘れ
時間も忘れた
学部・学科で試験があるという「ウワサ」があった時…
その時には、急遽その友人宅に向かう
そのための「ネットワーク」は何とか保っておいた
テストの日は「座る席がとても大切」…という訳だ
多くが協力的で仲間意識が強い
クラブ漬けの、そんな生活では
我が工学部・機械工学科の友人たちとは
共有できる時間が殆ど無かった…
でも、
例外的な男がいた…西野君
今、久しぶりに西野を想う…
学科内では最も気心の知れた西野
北九州出身で少林寺拳法部所属
同じく少林寺をやっていた志波君もよく遊びに来ていた
彼の下宿でよく麻雀した
腕相撲では
彼も負けたことがないと言っていたので
とても興味あった
オレも…とばかりに何度かチャレンジした
(そのチャレンジは社会人になっても続く。。。)
生まれて初めて「負けた..」.と
ひどく悔しく思った相手である
「中国一の山」と誇る我が「大山」を紹介
西野、志波、足立君を誘い4人でスキー
彼らには
米子の実家に泊まってもらった
考えてみれば。。。彼らは3人とも九州出身
その後、
1977年4月、西野の結婚式に参列
私がシカゴに向かうまで年賀状の交換
大阪、高槻市内であっても
私は4回引っ越ししたので
いつも「新住所をおしえれくれ」と言われた
結婚も子供たちも
ほぼ同時期
一年ほど彼が先を進んだ
「子供を見せっこしよう」と言っていたので
一度遊びに行った
「走る」ことにかけては
学生時代に悔しい思いをしたと
私に対してやけに強い対抗意識
走ることに関しては
「社会人になってから」トレーニングで鍛え上げ
全国のマラソン大会に参加してる…
フルマラソンを2時間59分で走るのが目標、と
ノートに細かく綴った「成長の記録」を見せてくれた
学生時代の彼は「全然だった…」
と記憶しているのだが
その彼が3時間10分を切ったとは。。。驚いた
思いがけず彼がシカゴに来た
彼のシカゴ支店長としての在任期間中は
1997年2月に日本に帰国するまでの数年間
深ーくて濃い付き合いが続く
麻雀、ゴルフ…彼の単身赴任に「お供」させてもらった
ほぼ日課…
私のワイフ・家族からはとても疎まれた
シカゴマラソンを共に走った
(私に)抜かれたのでやる気なくしたと…
かなり悔しかったのだろう
完走できなかったらしい
そして…
(定年)退職して
九州のお父さんの待つ実家に戻るというメールをもらった
何処に行こうと、どんな環境変化があろうと
互いの付き合いはこのままずっと生涯続く…
いつまでも…
普通にそう思った
リタイヤには少し早いなとは思ったが
私たちはもうそんな歳になったのか…
今度九州に遊びに行ってみよう…と
とくに何も感じなかった
彼を惜しむ会社の人たちの送別の宴
彼の新しい門出を祝っての会…
のはずだった…
事故は深夜
その帰宅途中に起きたという
彼は学生時代から何かにつけ立ち回り上手
要領良く、体力もあり運動神経も良かった
(ゴルフはそうでもなかったが…)
冗談めいた軽口をたたき、いたって元気…
リーダーシップを発揮
面倒見も良く、人に慕われていた
大組織の勤め人から実家へ…
よほど解放された気分に酔っていたのだろうか…
21世紀に入るまで…
それまで縁遠かった樽本君と私の交友関係
を取り戻してくれたのがこの西野
以後
その樽本とは今現在も
仕事の関係で無くてはならない存在となっている
そして…
樽本が訃報を知らせを…
当時…2002年10月15日の
柳楽君からのメールを下記シェアする
+++
俺たちも未だに信じられない気持ちが続いてます。
今にもその辺から西野が現れてくるような・・・
実はこの前の土曜日10/12の日も
またゴルフに行こう!って約束したばっかりで逝っちゃった
前日10/11の西野のメール
(たった一言OKだけだけど)が残ってます
樽本と3人で
「いい年になったからこれからいっぱい遊ぼう!」
っていい始めてたのにね
同期のみんなには全員に連絡したよ
志波にもね
後は駄賀(10/6来てくれたよ)、足立、藤井、本多達ね
11月の臼杵行き・・ゴルフして河豚食べよう!・・
の企画、足立も楽しみにしててね
どうしよう?かと思ったけど、西野追悼だからね、行ってくるよ
この間から、西野の話で酒飲みだすと止まらなくてね
づーっと飲んでいたいようなね
臼杵でも足立、樽本と飲んで来るよ。
じゃあ又!元気でね。
+++
あれから更に20年の歳月が流れた…
私たちは今でも元気に同期の宴を開くことができている…
私のことを「ぼうや」(坊や)と言っては
いつもからかった
その人を小ばかにしたような声のトーン
いつもの冗談っぽい独特の「調子よさ」の響きが
耳について離れない
他愛もないこと
バカなことを言い合っては笑った
西野に関する話は尽きない…
今でもすぐソコにいるような…
あぁ~あれから20年にもなるのか…
+++
広島大学の学生運動に話を戻す
こんな記事が見つかった
http://www.zenkyoutou.com/kiroku/hirodai.html
● 1969年2月、教養部学生大会においてストライキが可決、ストライキとバリケード封鎖は他学部へも拡大
● 1969年8月、機動隊導入による全面的な封鎖解除
● 1969年9月、教養部校舎前の森戸道路での最後の学内デモは30人以下となった
● 1970年、大学移転(現在の東広島市への移転)阻止と学生部解体を中心とした「大学再編問題」が俎上にのったが、医学部・政経学部社研などの学生達(全共闘運動経験者たちを中心とする約20名)は、大学移転阻止と学生部解体を中心とした「大学再編問題」を俎上にのせ…
● 1971年秋、学生部封鎖
● 1972年3月、教養部期末試験阻止闘争…春からの国立大学の授業料値上げに反対する学生の要求として、「学長団交」(飯島学長)を実現する運動へと展開
● 1972年6月、学生百数十名が「教養部長団交」実現のための教養部バリケード封鎖を実行, これに対して、大学側は機動隊導入によって学生の排除と授業の正常化を試みた… この闘争において、十数名の学生が逮捕され、このうち4名が起訴された
一連の出来事は
私たちの広島…学生時代
1969年入学
1973年卒業
に見事に重なる
学部やバドミントンの何人かの同期で友人の中にも
その「紛争」「騒乱」のど真中にいる者もいた
一方で、私は
「普通の」バドミントン仲間との「日常」に明け暮れ
大学内外の「ただならぬ世」への関心は薄く
「人ごと」の4年間の日々だった
たまに「反戦」デモにつきあうことがあったかもしれないが…
かえすがえす、今、いかにも懐かしく蘇る
人々、コト、モノ、光景…その日々
1972年秋…
「鈍行」の乗り継ぎ列車
それこそ日が暮れ、夜が明けて…
丸一日かけ
「山陰の」東京ならぬ
「ホンモノ」の東京へ向かった(大沢商会)
わずか4年前には
「田んぼのあぜ道を歩いていた?」 私…
重役のご歴々が席を並べる社長面接の際
「大学で何を学んできたのか」と問われて
自分でも不思議なくらい臆することなく即答
「人間学を学んだ」
などと高らかにぶち上げた
未知の土地、環境、分野、人に興味津々
怖いもの知らず と言おうか
向こう見ず と言おうか
米子にいる間は
母親からは常々「内弁慶」と言われて育った私…
広島を経て
まさに大胆不敵の22歳に「変身」したのだろうか
「らしくない」自分が
「らしい」自分に変わった…?
高校までの私を知る友人たちには
別人と映るだろうな…と思った
今思えば偉大なる勘違いであったろうが
「成長」したと思える自分を喜び・楽しんでいた
その後の「都会」の暮らしでは
多くのほろ苦い経験、失敗…
それでも田舎者独特のウブさも忘れ難く、愛おしく…
後年、思いにまかせひた走ることになる
夢見る「これから」に向かって
人生路の土台を学生時代に築いた
その半世紀前当時を切り取ってみたが
この機会を
今回、広島大学工学部機械工学科の同期会
が与えてくれた
振り返りの時間が持ててホントに良かった
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