投稿日: 2020年08月21日

明治、大正、昭和へと
大東亜戦争(第二次大戦)前までの
国の歴史、

私たち日本人を主語として、
「世界の中の日本」
を眺める。

日本人として 誇りに思う、
日本人の親の元に生まれて うれしい、

と思いつつも、
手塚治虫の
「時代は回っている」
ではないけれど、

歴史は繰り返す…

人類は、進歩・成長してない、
アレだけの犠牲を払って
何を学んできているのか、とも思う。

今現在も、
ほとんど同じ状況ではないのか?
むしろ退化した日本人??

なぜ
歴史に学べないのか…
学ぼうとしないのか…。

盛和塾で私たちは、
「利他の心」
これが普遍的な価値である…

いつの時代であっても
どの国の人であっても
どんな人種であっても…

変わらない、

そのように学び、
そう信じて
…そう信じようと努めていつつも、

この一連の歴史の流れと、
今、この瞬間、世界で起きている事実を
どのように解釈、受け留めたらいいのか。

日本人同士なら、当たり前、常識、
であることが、ときに

「世界では非常識」

の現実を思い知らされる時、
相手に「良かれかし」

と思う行為が如何に
上辺のつくろい、
「小善」

であるのか、
あったかと…
誤ちを繰り返す。

誰とも、どの国とも
話せばわかる、
分かり合える?

やはり私たちは、歴史、先人に
まだまだ、これからもずっと
教えを乞いながら、それでも
失敗と立ち直りを繰り返し続けねばならないようだ。

前回に引き続き

明治150年 真の日本の姿 第二話

( No. 2/6 ) をレポートします。

今回は、
明治、大正、昭和
日清・日露戦争、第一次世界大戦…
と駆け抜けて行く。

前回同様、
今の世界情勢、そして「世界の中の日本」
を自ら思考し、
自分の歴史観を描き

そして、現在の
自分の国と世界の国々
の関係をもう一度重ねてみる…。

その一助となればいいと願う。

「日本の」常識 vs 「世界の」常識

世界の中の日本… 「むかし」 vs 「いま」
「白人種」vs 「有色人種」

平和・平等を願う…

++++++++
「明治150年 真の日本の姿 第二話」

日本の中の 誇れるもの
日本人としての 軸
本当の 日本の姿…

小名木善行氏の語り

ストーリーは…
「戊辰戦争」が終わり「明治」へ…

明治政府は、
江戸幕府の時代に金が大量にアメリカに流出してしまったのでお金がない…
「金」が無くなってしまった。

そこで、 兌換紙幣
金と交換できる紙幣 を発行
現在の5,000円札10,000円札の元。

日本では早くから通貨の信用が確立されていた。
(アメリカは比較的最近)

和同開珎…日本初の流通貨幣
708年(和銅元年)に鋳造・発行された。

朝鮮通信使が日本に来た時に感心して…
日本の旅人は銭を持っているだけで、旅の途中で宿泊も食事もできる。
日本には「銭」という大変便利なものがある。
ところが、わが国には銭というものはない。

従って、旅をする時には、食べ物から着替えから、
全部持って大行列をしなければ旅をすることができない。
日本は、なんて進んだ国なのだ!
という報告書を書いている。

にもかかわらず、
江戸時代に武士の給料は、なぜ「お米」だったのか?
武士の給料はお米、税金もお米…

なぜ?
日本は天然災害の宝庫だから。
… 台風、地震、雷、大風、干ばつ…
自然災害があった時、
被災者の救助をしなければならない。

そこで大切にしなければならないものは
食料!
食べ物を確保しなければならない。

そこで…
収穫期には、農家から年貢を徴収する。

しかし、
徴収した年貢米を、武士たちはすぐに食べてはいけなかった。
新米を食べた経験のある武士は、
おそらく、江戸時代以前からいなかったのではないか?

御大名であっても、新米を食べるという事はなかった。
新米は丸ごととってておく。
前年のお米、古米 も取っておく。
2年分の米を備蓄。

一昨年の米、古々米 を
俸禄米として部下に配る、
それを食事に使ったり、
換金して金に変えて買い物する。

いざという時、御臓米(おくらまい)を
放出して庶民の暮らしを助ける。

この事は、
戦前の修身の教科書には書いてあった…

日本国内では、
納税日に税金の支払いが遅れる人はいなかった。

なぜなら、年貢米は税として払うけれども、
いざという時に、助けてもらえる。

自分の家族が飢え死にしないために
お米を取っておく… その強い意識があった。

例えば…
安倍晴明(あべのせいめい)。
平安時代の陰陽師。
鎌倉時代から明治時代初めまで
陰陽寮を統括した安倍氏の祖。

調停の陰陽寮にいる中間管理職
今でいえば国家公務員の中間管理職。
その安倍の給料は今のお金に換算すると年収が4億。

国家公務員の中間管理職で4億円❗️
ただ、
この4億円分はすべてお米。
この意味するところは、
このお米で、担当している地区に住んでる
人たちの生活の面倒は全て見なさい、という事。

だから、
勝手に使う事はできない。
みんなのため、
一般の庶民が、
豊かに安心して安全に暮らしていけるよう全力を尽くす。

これが、人の上に立つ者の役割、
という考え方が徹底していた。
この御臓米(おくらまい)をどこに保管していていたか…?
高床式の建物に保管していた。

洪水に遭わないよう、山のてっぺんにあった。→ 「神社」
神社というのは、長い階段を上っていった
山のてっぺんにある。
そして、すべて高床式住宅になっている。

そこに
奉納米としてお米を蓄えておいた。

即ち…
年貢として徴収したものは、
全部をお城に持っていってしまうわけではなく、
それぞれの村ごとに神社があって、
氏神様のところに年貢米を蓄えていた。

いざということを、
みんなで共同してやっていた。

戦後、神社は解体されて、
その、神社は、神社の所有物のようになっているが、
戦中までの日本では、神社は地域の共同体の共有物。

自然災害の多い日本においては、
皆が飢えることがないようにしていこう、
というのが国の柱になっていた。

ところが、一方で
お米を蓄えるのは3年が限度。

それに対し
小判 は蓄えることができる。

そして…
お金持ちの所には、千両箱が積み上がって、
お金持ちだけが、千両箱を独占して、
一般の人には、お金が流通しないということが起こってしまった。

お米であると、
ずっと取っておく訳にはいかないので
使わなければならない。

現在では、
お金を稼ぐために働いて稼いだお金は自分で貯める
のが当たり前になっているが、
かつてはそうでなかった…

皆で働いてお米をたくさん蓄えて、
蓄えたお米を使って道路や橋を作る。
天然の災害が起きた時にも
対策ができるようにする。

日ごろから困らないように対策をとっておく。
皆の共有財産としてお米を使っていく…、
これが、日本国内での「常識」だった。

だから、
貨幣経済が無かったわけでは決してない。

あえて、意図して、
お米を経済の中心としていた。
これが江戸社会だった。

ところが…
明治になると、
お米を経済の中心にするのが難しくなった…。
「西洋のやり方」に合わせなければならない。

税金というのは、
全てお金で払う形にする。
お金で払うという事は…
お米は、両替商のとこにもっていく。

そこで
お米をまず現金に変える、
それから税金を払う、
という仕組みに変わった。

そうなると、
どこが一番儲かるか?
大きな利益が得られるか?

金融屋さん!

この金融分野に、
外国資本が入ってくることになる。

現代日本での金融機関は、
政府の管轄ではあるが政府ではない

「日本銀行」
という銀行になっている。

このように
明治になって、かなり国の形が変わった。

明治政府は、
できたばかりでお金がない…。
昔は 旧暦 (月の動きで暦を作っていた)
今は閏年には、2月28日が29日と1日増える、

が、
陰暦の場合は「閏月」というのがあって、
丸ごと1ヵ月増える。
1年が13ヶ月となる。
明治に閏月がやってきて、
公務員の給料を13ヶ月分払わなければならなくなった。

お金がない払えない…困った❗️
「暦を変えてしまおう!」

そこで、
日本は、西洋式の太陽暦を採用するようになった。
その年を、むりやり 12ヶ月にした。

明治政府はお金がないスタートになった。
日本は外国に「金」を奪われ貧乏になった…

それならば、
今度は外国から「金」を取り戻す!
それができるようにしていかなければならない。

そのためには、
西洋に喜んでもらえるような
モノを国内で生産、
作っていかなければならない。

「殖産興業」!

そこで生まれたのが
「富岡製紙工場」…
糸を紡ぐ布を作る工場。

「造船業」が盛んになる。

例えば、日本の船舶技術に付いて…
ロシアの船が駿河湾でナンパした。
ロシアの人たちは、国に帰ることができなくなった。

そこで、
ロシア船と全く同じものを普通の漁民が作ってしまった。
…そのくらい日本の船舶技術は発達していた。

日本最古の蒸気汽関を動力とする
曳揚げ装置を整備した洋式スリップ・ドッグ
…小菅修船場(明治元年完成)

それまでは、
西洋から船を買うしかなかったが、
国産の船を作るようになった。

こうして、
外国と対等に交易をするようになったが、
そこに問題が…。

幕末に諸外国と締結した条約は、
ことごとく不平等条約になっていた。

商取引というのは、
常に相手と対等な関係でなければならない、
はず…

一方的に
西洋諸国が有利、
日本側が不利 に
なっているような条約では安心して交易はできない。

そんな時、明治19年に大変な事件、
「ノルマントン号事件」
和歌山県沖で暴風雨で沈没した。
この時、イギリス人やドイツ人の
乗組員26人全員は救命ボートで脱出。

そして、
沿岸の漁民たちによって手厚く保護された。
全員命が助かった。

ところが、
この時、25人の日本人が乗っていた。

この25人の日本人は誰1人避難できなかった…。
そのまま船の中に取り残され、
溺れて死んでしまった。

この事件が起きたのは10月24日。
11月1日、神戸にある駐日英国領事Jamesツルーブ
には領事裁判権があって、海難審判というのを行った。

11月5日、ドレイク船長の証言
「日本人に早くボートに乗り移るよう勧めたが、
日本人は英語がわからずその勧めに応じず、
船内にこもって出ようとしなかった」
という供述を、100%認める。

船長以下船員全員に無罪判決。
日本人は死んでも構わない…?
という判決が出てしまった…。

これに対して、日本人は猛烈に怒った。
西洋人なら助けるのに、
日本人なら死んでも構わないのか!

西洋人の乗客なら助けたのではなかったか!
そこでやむなく、
イギリスの大使館で裁判をやり直す。
しかしやはり、
イギリス人の乗組員に対しては甘い判決だった。
日本人に対する賠償金は1円も無かった。

やはり…
不平等条約というのは辛い。
日本が経済で発展するためにも、
あらゆる意味においても、
日本は力をつけなければならない!

軍事力の面でも強い国なっていなければ、
何か言われたときに全く抗する力がない。

経済と軍事、
この両面から
日本は力をつけていかなければならない。

これが、
「富国強兵」
であり
「殖産興業」
になっている。

当時の富国強兵は、
「日本が軍国主義に向かった」
ということを言う人がいるが、

それはやらなければならないという事情があったこと
を理解しなければならない。

宮中晩餐会で天皇陛下がおもてなしをする…
その時、
日本が出す料理は今でもフランス料理。

世界中どこでも…
韓国であれば韓国料理
中国であれば中国料理。

それぞれの国が、
自分の国の自慢の料理を出して賓客をもてなす…
これが世界の常識。

ところがなぜか、
日本ではフランス料理でもてなす。

なぜか?
それは、明治時代に遡る…
西洋と同じように文明開花した国、と理解してもらうため、
わざわざ当時、フランスからシェフを招いて、破格の給料で
フランス料理を出した。

あるいは、冠婚葬祭…
日本人は皆、黒い喪服 を着る
江戸時代までは、喪服とか礼服は 白だった。

白装束

武士が切腹する時
結婚式の時
日本では、
礼服はもともと白だった

これも、
明治天皇が、外国の習慣が黒であるならば…
ということで率先してご自身が黒色の衣服を。

新しい習慣として、
明治以降に始まった…。

この様に、
不平等条約を解消するため
日本は努力を重ねた。

涙ぐましい努力を続けた…。

ところが、
その日本に大きな事件が起きた。

大清帝国、巨大な国家、と思われていた…が、
実は、領地をほとんど外国に奪われていた。

それでも、清国は立派な軍艦、
を作っていた…海軍の戦艦「定遠」
軍艦が日本の長崎にやってきた。

船員たちが悪行三昧を働いた。
そこに元武士である3名の巡査が立ち向かう。

あまりにも抵抗が激しかったため、
清国人を1人切り殺した。
これが国際問題となる!

その事件で、
日本人は 3人殺されて、
中国人は 1名殺された、
なので、本来は日本人が賠償してもらう状況であるはず、

なのに、
清国側は「5人殺された」と主張。
日本に賠償金を払えと要求。
日本を格下に見ていた。
日本をバカにした、
ということが頻繁に起きていた。

日本と清国との利害が対立。
又、一方で
朝鮮半島は不安定。
ロシアが南下、日本にまで手を伸ばしてくる恐れ。

これを跳ね返すためには、
朝鮮には独立国としてしっかりしてもらいたい。

そこで
日本は朝鮮に対して巨額の援助。

それでもその当時の李氏朝鮮(1910年まで存続) は、
あっちへフラフラ、
こっちへフラフラ、
清国に付いたと思えばロシアに付く。
ロシアに付いたと思えば清国に付く。

…国内の派閥争いのために外国を利用している状態。
清国もロシアも、日本も振り回される。
そのためロシアとの関係が悪化
清国との関係が悪化

そこで
明治23年、第3代内閣総理大臣 山縣有朋
明治24年の国家予算の際に8割を軍事費に!と、

「もうこれ以上、
日本がナメられるわけにはいかない!」

国会にその予算を提示した。
ところが、国会は猛反対。
そんなお金は内需に使うべきだ…。

結果、
軍事費は大幅に削減され、
国防力は整わないまま…

● 明治27年(1894-1895年)
「日清戦争」

李氏朝鮮の地位確認 と
朝鮮半島の権益をめぐる争い。
かろうじて日本の勝利。

この時、
清国軍 630,000人、戦病傷者数 約35,000人
日本軍 240,000人、戦病傷者数 17,069 人

ただし、
日本の戦病死傷者 17,069人の内、
約12,000人は病死。
戦いのために戦死・戦傷したのは
1,417名のみ。

なぜなら、
大陸は伝染病の宝庫だった。
衛生環境がとても悪く、
まともに水を飲むこともできない。
伝染病で亡くなる人が多かった。

次いで
ロシアと戦うことになる。

● 明治37年(1904-1905年)
「日露戦争」

朝鮮半島と満州の権益をめぐる争い。
この戦いでも、日本は勝利。

この時の旅順戦で、大変な死傷者が出た。
乃木希典将軍(大将)は、
戦場で亡くなった
御霊を鎮めようと、全国の神社に忠魂碑を建てた。

日清戦争は、有色人種 vs 有色人種
日露戦争は、白人種 vs 有色人種

「白人種」vs 「有色人種」
”まさかの”有色人種が勝利した!

このニュースが世界を駆け巡った。
当時の世界では、白人が宗主国
であって、有色人種国は、ことごとく
植民地化されている、
支配されている、状態だった。

有色人種が、
民族として独立を保たれている国というのは
世界を見渡しても皆無…

唯一「日本だけ」
という状況の中にあって、
「有色人種は、逆らっても勝てない」
誰もが勝てない、と思い込んでいたところを、
日本 が勝ってしまった…。

これで、世界中の有色人種…
黒人、黄色人種も、

皆が、
「自分たちだって頑張れば、
独立を勝ち取れるのではないか」
と、考えるようになった。

日本は、有色人種達の
輝ける星、
輝ける太陽 になった。

この後、
● 大正3年-7年 (1914-1918年)
第一次大戦。

世界中が戦争に巻き込まれた。
日本は戦勝国となる。

この世界大戦の際には、
兵隊だけではなくて、一般の庶民が犠牲となった。
悲惨な戦い。
こんな悲惨な戦いは、二度と起こしてはいけない!

世界が平和で戦いが起きそうな場合には話し合いで解決しよう!
そんな仕組みを作ろう、と、
国際連盟
本部…パレ・デ・ナシオン(ジュネーブ)

第一次大戦
パリ講和会議(会場となったフランス外務省)

日本からは
牧野伸顕(しんけん) が全権大使。
牧野は、アメリカに立ち寄って、それからパリに向かった。

その時、アメリカの黒人は、諸手を挙げて牧野を迎えた…
「日本からヒーローが来た」
俺たちのヒーローが…
俺たちの自由を与えてくれた人がやってきた…。
大変な歓迎を受けた。

● 牧野伸顕
政治家・外交官
大久保利通の次男
西郷隆盛とともに上京
公使森有礼のもとでロンドンの日本公使館アタッシェとなり渡英 等

吉田茂元総理の岳父
牧野は…
国際連盟規約に
「人種の平等」
を入れるべきだ!

世界の人々は肌の色で差別されることなく、
すべて人として平等である。

このことを、
パリ講和会議で宣言しようではないか、という提案をした。
参加16カ国中、11カ国の賛成を得る。

しかし…
議長のアメリカ合衆国
第28代大統領 ウッドロウ・ウィルソン
これほど大事な問題について
全会一致ではないからこの提案は退ける、
と、否決。

日本は…
「人種の平等」
ということを宣言に入れることができなかった…

このことが原因となって、
日本は
「世界の敵国」
となる。

世界中の有色人種からは、
日本はまさにヒーロー・英雄、
のように思われていた一方、

白人諸国、植民地支配をしている国から見ると…
植民地の中で、広大な土地を持って農園を開いている
大金持ち、彼らは白人。

人種の平等を取り入れるという事は、
植民地は無くなる、ことを意味する。
植民地が無くなる ということ、
白人が財産を失う ということになる。

植民地は、
500年前、大航海時代から続いている。
500年続いた大地主。

大農場を持っていて、
御殿のようなところで生活して、
生まれてから着替えをするのも、
全部メイドさん達がやってくれる、
自分は立っているだけ…

そういう生活をしてきた者が、
その元になっている財産のすべてを
一瞬にして失うという事を意味する。

ヨーロッパでも、
そういう人たちが大きな力を持っている。
そういう大きな力を持っている者が
それぞれの諸国の政府。

いわば、
日本が、パリ講和会議で
「人種の平等」
を訴えたことで何が起きたのか…。

日本は、
世界中の支配者である白人の大金持ちを
敵に回した!

これが、次の時代につながっていく…

第3話に続く
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