投稿日: 2023年01月07日

「耳をすませば」
ちょうど1週間前が大晦日…
2022年12月31日

その波乱に満ちた年の最後の日だった

この日、NHKで放送された番組のタイトルが「耳をすませば」
残念ながら米国在住のため見逃したこの番組

先日、友人から同放送の
「稲盛さん」
のYouTubeアップ動画を紹介してもらった
https://youtu.be/28ECkhXQC_E

公私ともにまさしく波瀾万丈の2022年の日々が思い起こされるが
その象徴が
従妹からの第一報だった…

シカゴ時間
2022年8月30日 午前0時54分

「純ちゃん、稲盛さんが亡くなられたようです。テレビで速報と出てました」

大きな衝撃が走ったが
悲しみはそんなになかった…不思議なほどに

その人はいつものように
毎日
家の中で…
私の中で…
今もほほえみ
生き生きと語りかけ続けている

その目に、問いかけに
会わない日はない…

この番組の冒頭部分…
車内助手席から映されたと思われる稲盛さん…

まさにこの角度、姿が
私の脳裏によぎる
2011年5月9日、4日間の歓迎会ビックイベントを終えてハイヤーでシカゴダウンタウンから空港までお見送りする1時間…ほんの束の間のひととき

以前のブログにも書いたが
何を話したのか
よく覚えていない…

景気やシカゴの天気について話したかなぁ…

静かで
穏やかで
和やかで
温かい 雰囲気

あのカリスマ…
経営の神様と言われる人が
確かにこの人なんだろうか…と思った

JAL再建を託されて一年後
まさに渦中の人
日本中の人が固唾を呑んで見守る真っ只中の人でもあった

この番組早々の車内の雰囲気から
ついつい2011年5月当時の
つかの間の私の「鞄持ち姿」がダブった

そこで
2023年を始めるにあたって
番組で披露されている言葉、フレーズの端々から私自身の記憶を呼び覚ませつつ、学びを振り返りることで、これから先の自身の人生の進め方を再確認したい

稲盛さんのシカゴ入り…
シカゴ塾の開講式に際しては
盛和塾伝統(?)のしきたりともいうべき文化があって先輩塾、多くの塾生の方々から手ほどきを受けつつ、50数名のシカゴ塾生とともに勤務時間内外を問わず、半年間チャレンジングな日々を過ごした

個人的には
ビジネス面で全く先が見えない中でもあり、

これまでの生活、私の性格などを熟知しているワイフからもダメ出しされたが
私自身の人生をこの機会にリセットしたいとの思いもあり、この一連のイベントの実行委員長の大役を担う決意をした

とは言え
至る半年間は確かに非日常というにはあまりあり…

何しろ、束なったこの集まり…
50数人それぞれが意を決して日本を離れ、この典型的競争環境、異国の地でビジネスを行っている.…組織…所帯といってもいいかも知れない

知識、経験、年齢、好み、常識…
面白いほどに温度差がある
侃々諤々の言い合いもあった

余興の予行練習…
皆が人生初めてというトレーニング(?)は深夜まで続く日もあった

ホテルやレストランなど
各種イベント会場の設置、機器や人員の配置
四日間のスケジュール管理、担当責任者人選、振り分け、業務連絡と動線ごとの引き継ぎ…

シカゴ塾生経営者には
旅行、イベント、販売、会計経理…など多種多彩で個性的な強者が多く存在しており一筋縄ではいかない人たちである反面

ことにあたっては、共通する目的、目標に触れた途端、面白いほどに一丸となれた
私自身、かくも積極的な自分になれたのは驚いた…

今思えば冷や汗が出るほどだが…
相手がどのような立場、組織であっても、何事につけ働きかけに躊躇はなかった…「内うちだけのイベントだ」と、盛和塾本部から諌められるほどに…

稲森さん「来シカゴ」旨を
シカゴ領事館に伝えたところ総領事が喜んで参加したいとのこと、講演会当日には
「時の人」稲盛さんの横で
並んで写真を撮りたいと依頼を受けた

イリノイ州知事事務所、講演会場となるシカゴ市筋にもその旨伝えたところ、市長は着任早々(2011年2月22日)とのことで会場参加は実現せずメッセージのみとなった…

…ちなみに、当時新任のシカゴ市長は、現在、駐日アメリカ合衆国大使のラーム・イスラエル・エマニュエル氏(Rahm Israel Emanuel)

日本航空再建時とあって、JALシカゴ支店長(塾生ではなかったが)にも我が家にお越し頂いて入念に計画を練った

何しろ超多忙…
稲盛さんシカゴ着当日においては

午前中 テキサス州でのアメリカン航空の役員会参加…日本航空とアメリカン航空との協力協調路線を確認
昼頃 シカゴ入りし、全米のJAL支店長会議
そして
夕刻 私たちの待つシカゴダウンタウンのホテルでの夕食会

という流れだった
まさに
一瞬たりとも無駄にできない、すまいと
その後の分刻みのスケジュールと動線を皆と共有しワクワクしながら「その瞬間」を待った

その瞬間 の際には
その瞬間 に至るまでの日々がよぎった

とりわけ、2月17日には米子の実家の母が亡くなり、深い悲しみの中、急遽日本を往復することになった…その間、みんなの協力で乗り切ることができた事は忘れがたい

そして
3月11日、東北大震災…
シカゴ開講式はそのわずか2ヶ月後…
5月初め…日本の連休期間が選ばれていた

が…

宮城、岩手、福島などで
被災者となった 多くの塾生たち
それを支援する 多くの塾生たち
のまさに精神的、物理的支柱の稲盛さん

私たちの半年間にわたる非日常的な積み重ねは水泡に帰すもやむなし…と
半ばあきらめのムード…
実現が危ぶまれていたが

盛和塾シカゴ…私たちの新しい旅立ちにかける「思い」をことのほか大事にして頂いた
「ソウルメイト」…ほとばしる魂を共有できる仲間として
盛和塾の塾生たちを
自分の息子のごとく可愛がってくれていた…京セラの社員以上だと後に聞いた

この重大かつ微妙なタイミングの渡航自体
中村天風の積極思想
から多大な影響を得た
「思いの強さ」
の証明と感じた

「新しき計画の成就は 只不屈不撓の一心にあり
さらばひたむきにただ思え 気高く強く一筋に」

後日のJALの奇跡的復活を
目の前で私たちに予見させた

耳をすませ…
目を閉じれば…

動画の中から
稲盛さんの言葉を拾ってみる

「人間として何が正しいのか」
ということを座標軸にして
物事をすべて経営判断していく

⚫︎立派な人間性にならなければ
会社だけがうまくいくわけがない

⚫︎逆境に負けず自分を貫く…逆境に負けず、自分が信じる道を貫くことで大きな成功をおさめる人生
稲盛さんが京都セラミックを創業した年、1959年.…
私は…と言えば、父親を亡くした翌年、母親と姉と弟、4人で
島根県広瀬町から鳥取県米子市に移り住んだ頃に重なる…
田舎から都会(?)へ向かった小学3年の転校生…家も住環境も暮らし向きも学校も一変した

⚫︎みんなが喜んでくれるようにしてあげるということが会社の目的なのだ
「会社の」目的
の部分を
「人生の」目的
に置き換えることこそが
その真髄
であると悟る

⚫︎全従業員の物心両面の幸せを追求することを会社の目的にする
欧米諸国はもちろん
高度成長期の日本経済をリードした株主資本主義.…

ではあったが
過去30年の間に
年功序列、終身雇用を廃し
経済合理主義をどんどん強めていった

人の労働はあくまでコスト…
グローバル化の波に伴い
21世紀に入ると、ますますこの傾向がひどくなっていった

物質的には今より
はるかに貧しいはずの「昭和」が懐かしく
はるか遠くになるほどに…

稲盛さんの経営の根幹は
経団連を構成する、これら主流経営の流れからは真っ向から対立する考え方にある

ただ聞くだけなら、日本人であればその多くが共感でき、しっくり納得、賛同できる考え方…ではあっても
経営者として実現、まして長きにわたって実践し続ける事は如何にハードルの高いことか…

様々な局面において矛盾、多大な困難が生ずるのが世界経済、実社会だ

哲学者であっても
哲学者に留まり続けることは許されない
多くの従業員とその家族を永遠に守り続けなければならない

経営の実学と哲学…
経営手腕とフィロソフィ…哲学とは
車の両輪、一体でなければならない

ここでも
「経営の」原点は
「人間の」原点
と置き換えたい

人が人間として生きていくには
とんでもない 矛盾や
途方もない 苦難や試練が
対である…いうことだ

稲盛さんも
矛盾…
という言葉をよく口にしておられた

新参社会人の頃の社長に
同じようなことを言われていたことを思い出す
「矛盾に生きよ」と…

意味不明で
よく分からなかったが
今なら理解できる

稲盛さんは…

強さと弱さ
温情と非情
独裁と協調
利己と利他

という相矛盾する両面を持っていなければならない、と説く
どちらかで良いのではない、相矛盾する両極端の性格を併せ持ち、それを矛盾なく機能させられる能力を持つ人のことを最高の知性の持ち主という…

局面に応じて矛盾なく発揮できる人、大変難しい課題だが、経営でも人生でも自らに課さなければならない、その矛盾をいかに解消していくことができるのか…これが人生の成功者と失敗者の分かれ目になる

⚫︎経営マインドを持つ
人生も経営..
それぞれが独自の人生をマネージする

⚫︎動機善なりや 私心無かりしか…
稲盛さんにより、今や世間一般にも広く知られるようになったこの言葉
日本の電話通信料金は高すぎる!
これでは日本国民も不便、企業も競争力が失われている、このままではやっていけない.…
「お前が思っている動機は善なのか
利己的なもの、自己顕示欲がありやしないか」
半年間、自問自答、問い続けた…そして
1984年(昭和59年)、第二電電企画株式会社 (後のKDDI)設立

いくら成功してきたとは言え
京都の一介のセラミック製造メーカーが、全く異業種、通信業界への挑戦…しかも天下の日本電信電話公社(後のNTT)が相手というマンモスへ挑んだ
半年間考え抜いた後での決断、判断であっても、とても成功するとは思えないと皆が思った…
京セラ社内の役員全員が反対したという…それでも1000億円を自分に与えてくれ、と稲盛さん52歳一世一代の決断の大勝負…
勝算はまるで見えずとも
失敗したら自分も会社も大きく揺らぎはするが
倒れる事はない…
人生をかけるに値する…と
何とか周りを説得した

⚫︎会社経営はこうありたいと思って
それを守ってやっていくのが理念
理念を曲げてまで生き延びたって意味がない❗️

はっきり言い切っている…
人生観そのものである

経営理念というものは愚直に守っていくもの
経営者でなくても
人間でもそうだと思う…

++++++
このビデオ視聴中
「経営者」の部分をそっくり
「人間」と、自然にすんなり置き換えていた

それが
過去10数年間学び続けできたことに他ならない…と、私の心に今でも稲盛さんが生きていると思った
身体が震え、目頭が熱くなった

盛和塾の例会や経営問答
の様子も紹介されている

私は2011年以降
シカゴ、松江、ハワイ、米子、東京…機会あるごとに参加させていただいた

記憶をたどり
記録を眺めている
かえがたい思い出
生涯の財産となった

⚫︎愚痴を言わず感謝の気持ちを持つ…他を利するところにビジネスの原点がある
動画最後のクリップ部分で
少し上記の冒頭部に重なるが…

⚫︎2010年(平成22年)78歳の時
経営破綻した日本航空の再建を託され、ここでも稲盛哲学が活かされた
すべての源泉は中に住む社員が幸福だと思える状態を作ること…「それ以外にはない」
半官半民の官僚的社員のマインド
意識改革の徹底.…

結果…
⚫︎2012年(平成24年)9月19日日本航空株式会社2年8ヶ月という早さで株式再上場

++++
やはり行き着くところは
「人間としてどう生きるか」
稲盛さん自身が
常に自分に問い続けてきた言葉

一生懸命に生きるということは
生きている人間として当然のこと
道端に生えている雑草を見るといい
どんな逆境であれ、悪い環境であれ
必死で生きていない動植物はみな生き絶えてしまう

なぜなら…
人間の心の思い方、考え方が
宇宙をつくった作り主である大自然と結びつくようにできているから…

苦労する
努力をする.…
生きるために必死で生きることは
当たり前…

なのだが
ただし
苦労を 苦労する と思わない
努力を 努力 と思わない

むしろ
そこに喜びや楽しみを見出す営みにこそ
人間の人間たる所以、知恵、価値といったものがあると私は解釈している

「耳をすませば」
ベッドルーム内…部屋中の
稲盛さんもにこやかにうなずきながら私に念を押す…

「お前さんはもうわかってるだろうな…」

生き物として必死で生きる
というのは当然の義務

「義務」
なのである

 

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